生きている事は苦しみ

人としての幸せ

釈迦はこの世の全てを苦とみなしました。輪廻転生と言う生まれ変わり死に変わりのサイクルを繰り返している間は永遠に苦しみ続けることに気付いてしまったのです。

この永遠の苦しみから脱出するには、悟りを得て仏の世界に行くしかないと思った釈迦は王位を捨て、家族を捨て、地位も名誉も捨てて修行の旅に出ます。

人生は苦しみだろうか

果たして私達人間の世界は、そんなに苦しみに満ちた世界なのでしょうか。

もちろんもう人生おしまい、ということで、今すぐにでもこの人生を終わらせたいという人もたくさんおられます。

しかし私達は普通に生活していく中で、ほとんどの人が人生の全てが苦しみなんて思ってないことでしょう。

何故なら、確かに苦しみもありますが、楽しみもあるからです。

ある意味、楽しみがあるからこそ苦しみが乗り越えられるのかもしれません。

四苦とは

苦労したことを「四苦八苦」と言いますが、釈迦は私達人間には生まれながらに、「生・老・病・死」の四つの苦しみがあると説きました。

病苦とは

病苦とは、病気の苦しみの事、病気になったら誰でも辛いですから、苦しみを伴います。

身体の病気は体の痛みや不快さを伴いますし、治るか治らないか分からない病気は不安な気持ちになります。

自分では明らかな病気だと感じていても、いくら検査しても不明な事もありますし、精神的な病気は目に見えないものに苦しめられます。

医者から不治の病を宣告されたら目の前が真っ暗になり、生きていく希望を失ってしまいます。

病気になれば普通に健康であることが如何に有難い事か良く分かります。

死苦とは

死ぬことも辛いことです、四つの苦しみの中で死苦が一番辛い苦しみかもしれません。

人間には基本的に「もっと生きたい」という欲望が備わっているからです。

大切なパートナーがいる人でしたら、この先何時までもパートナーと一緒にいたいと思いますし、働き盛りの人でしたらやるべきことがたくさんあるでしょうし、子供が居る人でしたら子供の成長を見守ってあげたいと思うものです。

まだ若い盛りで癌になって余命宣告されたら…お先真っ暗、大変な苦しみになってしまいます。

老苦とは

老苦というものは、若い時には普通に出来ていたいろんなことが、歳をとったら出来なくなってしまうことです。

年齢を重ねる毎に動き回るのが億劫になり、物忘れも激しくなってくる。

ましてや、寝たきりになってしまって介護されるようになったら、何の楽しみも無くなってしまい、生きているのが辛くなってしまうかもしれません。

生苦とは

人がこの世に生まれてくることはとてもおめでたいことのように思いますが、釈迦は気の遠くなるような輪廻転生の間に経験した人間世界を含めての六道の経験が全て苦しみの連続だったことに気付いていたことを生苦と言います。

目先のことしか見えない私達にとっては、目の前に起こったことに対して喜んだり悲しんだりするのですが、真実の姿が見えた釈迦にとってみれば、その先の苦しみが見えてしまうのです。

この苦しみから逃れるには六道の輪廻転生からの解脱しか他に方法は無いのです。

解脱の先に待っている世界が苦しみの無い、永遠の安楽の世界であることを釈迦は知っていたのです。

釈迦は、人間世界で生きていくことはもちろんのこと、人間世界に生まれるというだけで、もう苦しみが始まってしまうことを知っていたのです。

苦しみの世界から抜け出すには

釈迦と同じく、苦しみの世界から抜け出すには、仕事や家族の一切を捨て、自分の持ち物やお金も全て捨てて修行するしかありませんが、私達にそんなことは無理に決まっています。

今生だけ釈迦と同じ修行をすれば仏になれるのなら、出来る人もいるでしょうが、釈迦は限りない前世の修行の積み重ねがあってこそ悟りを得ることが出来たのであり、私達はそういった気づきの前世を送っていないでしょうから、もうスタート地点で釈迦とは比べものにならないのです。

私達に出来ること

悟りと言うものは難しいものですが、私達に出来ることは何なのでしょうか

悟りを目指す事

悟りには52の段階があって、1段階目の初信から始まるとも言われ、真言密教では弘法大師空海が書いた「十住心論」には悟りの段階を10に分けて最初の段階が、第一住心、異生羝羊心(いしょうていようしん)と言い、煩悩のままに生きている状態から始まり、最終段階、第十住心、秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)で悟りを得ます。

生きながらに仏になったお釈迦様であっても、いきなり悟りを得られたのではなく、前世を含めて果てしなく長い時間をかけてこういった悟りの段階を少しずつ登っていたのです。

第一段階からのスタートは私達も釈迦も同じこと、スタートが無ければ決してゴールは訪れないのです。

まずは悟りを目指すというスタートを切ることです。

人間世界は悪くない

六道のイラスト

私達の人間界は、上に天界がありますが、下には地獄餓鬼畜生阿修羅の世界があり、私達の下の世界は私達の世界よりも一層苦しみの多い世界なのです。

おまけに一度落ちてしまうと善行を積むことが困難になり、上がっていくことは非常に難しいのです。

今私達がこの人間界にいるということは、それなりの徳があったからこそいることが出来たのだということをよく認識してください。

快楽ばかり享受していると、徳をどんどん減らしているのです。

何もしないでいても徳は減り続けます。

しかし私達の世界の良い所は、徳を積むことが出来ることなのです。

徳を積むとは、利他行、つまり他の苦しみを取り除き、幸せを与える行なのです。

一切衆生の救済のため、なんていう実践は、地獄でも餓鬼でも動物でも出来ないこと、これが人間の素晴らしいところなのです。

今の日本に生まれた幸せ

今の日本はとても豊かになりました、お金を出せば24時間何でも買えますし、空調の整った部屋で過ごすことも出来ます、車に乗れば遠い所にでも出かけられますし、飛行機に乗れば世界中の国に出かけることも出来ます。

病気や怪我をしても病院がいつでも開いていますし、今日明日、食べるものがまだ見つからない、なんてこともありません。

何か調べようと思ったらパソコンやスマホですぐに調べられます。

もしあなたが今すぐ石器時代にでも飛ばされたら、どうしますか?

おそらく生きていけないでしょう。

また、これだけ日本が豊かであっても、世界中には食べ物が食べられない、医療が受けられない、学校に行けない、紛争が続いているなどの地域や国々がありますので、私達はこの平和な日本に生まれてきたことを感謝しなければいけません。

ましてや仏法に触れることが出来るのは、ごく一部の限られた人なのです。

偶然と言えば偶然ですが、本当に恵まれた環境に生まれることが出来たある意味選ばれた人なのです。

仏法の真実は幸せになるための法則ですが、折角仏法に触れても、堕落した人生を送ってしまうと、永遠に暗黒の苦しみの世界に堕ちていってしまうのです。

悟りとは

釈迦如来のイラスト法界定印

悟りとは仏教の開祖である釈迦が、苦しみの世界である六道の輪廻転生の輪から抜け出して到達した安楽の境地のこと。

釈迦の悟りとは

釈迦は一国の王子という恵まれた身分でありながらこの世は苦しみに満ちた世界であることを見抜き、家族、名誉、地位などのあらゆる執着を捨て去って難行苦行の旅に出て厳しい修行の日々を過ごし、餓死寸前まで瞑想したところで突然瞑想を止めてナイランジャナー川で沐浴した後に村娘のスジャータから乳糜の布施を受けて体力を回復してピッパラ樹の下に坐して瞑想し、ついに悟りを得ることが出来て仏陀になりました。

釈迦の悟りの境地である涅槃は人として仏に成ることが出来て安楽の世界に到達し、絶対的な幸福を味わう事が出来るのですが、これまで数多くの人達が同じ境地を目指して必死の修行をしてもたどり着けない境地です。

悟りを得た釈迦はしばらくの間そこに座ったままで悟りの楽しみを味わい、更に場所を変えて悟りの楽しみを味わい続け、悟りの内容を人に伝えるべきかどうかを考え続けたが、やはり難解すぎて人に伝えることは無理と断念したのです。

釈迦は悟りの内容が難解すぎて人には伝えることが困難な事、そして自分一人だけが悟りの楽を味わうことで良いのかどうかを悩んだ末に梵天勧請によって伝法を決心したという話は有名です。

凡人と悟り

釈迦は実在の人物として悟りを得て如来になりましたが、家族、名誉、地位などのあらゆるこの世の宝を捨て去ったことはもちろんの事、餓死寸前まで追い詰めたこの世での壮絶な修行など、私達凡人には到底真似の出来ないことばかりです。

更に釈迦は永遠に近い輪廻転生の繰り返しのそれぞれの転生でも壮絶なる修行をしていたという前世の伝説を聞けば、もう私達には絶対に真似が出来ない全く別次元の方だということが分かります。

ましてや私達凡人は阿弥陀仏誓願にすがったり、誰かに助けてもらうしか方法が無いのですから、釈迦の悟りは無理だと悟ることが大切です。

普通の生活をしている人がある日突然修行に目覚めたとしても悟りの世界は果てしなく遠いことに気が付くだけです。

しかし生まれ変わり死に変わりの輪廻転生の輪から抜け出せないと分かったら、少しでも良い世界に生まれ変わることを目指せば良いのです。

少しでも良い世界とは、私達人間世界と天界のことです。

人としての幸せ

釈迦は出家する時に家族を捨て王位を捨て、何もかも捨てて出家しました。

普通でしたら捨てられた家族は、そんな自分勝手なことをされたら不幸になってしまいますが、釈迦の出家の目的は仏になることで、それが実現したからこそ家族は救われて釈迦が家族を捨てたことが正当化されるのです。

しかし私達凡人が家族を捨てて修行の道に入ったとしても、皆がバラバラになって不幸になることが多いのです。

私達は仏になることが出来ないとしたら、せめて仏に近づくことはしなければいけませんが、そもそも人として幸せになれない人は、仏に近づくことも出来ないのです。

折角今の平和な日本に生まれてきたんですから、人間として生まれてきたことに感謝し、まずは幸せな人間になることを目指しましょう。

人として幸せになるためには、心が地獄や餓鬼ではいけません。

理想的な人間とは他を思いやることが出来る人です。

利他行のすすめ

私達の上の世界である天界では他を思いやることがちゃんと出来ていますので、心が非常に穏やかですが、私達はどうしても自分本位、自分の事しか考えられなくなってしまうことがあります。

他を思いやることは基本中の基本です。

毘沙門天が家族の形をとるのは、まずは幸せな家族になりなさいということなんです。

たとえ身内の者が誰もいなくなってしまっても、亡き人も含めての家族なのです。

天界では全ての者が他を思いやるから争うことが無く、幸せに満ちているのです。

利他行が実践できる人は他を幸せにすると共に、自らも幸せになるのです。

幸せは作り出すもの

幸せは作り出すものであって、勝手に舞い込んでくるものではありません。

それはどうやって作り出すのでしょうか。

幸せな家族とは、笑いの絶えない家族です、「笑う門には福来る」皆が笑って幸せでいられるよう、毘沙門天は七福神の姿でもあるのです。

何もいいことが無い、おもしろいことが無いのに、どうやって笑うのでしょうか、それは何も無くても大きな声で笑うのです。

そんなこと恥ずかしくて出来るか、という考え方がもう既に疫病神なのです。

気が付いた人が変わる、自分が変わらないといけないのです。

これも立派な宗教です、毘沙門天の教えです。

自分が変われば相手も変わる、相手が変われば周囲も変わるのです。

自分が頑なに持っているこだわりや、常識だと思っていることを何の執着も無く捨て去る、これも立派な修行なのです。

真の幸せに近づくための修行だと思ってください、必ず幸せに一歩近づくはずです。

こだわりを捨てる

人間誰にでもこだわりというものがあって、何にこだわっているのかが個性ということになっているのですが、個性として素晴らしいこだわりなら善いことですが、変なこだわりは人との対立という結果を招きます。

変なこだわりとは

  • 机の上の物の置く順番が決まっている
  • 時間ばかり気にする
  • 知ったかぶりをする
  • 偉そうに振る舞う
  • 絶対に謝らない
  • 汚れることはしない
  • 自分が一番偉いと思っている
  • 家では何もしない
  • ゴミ出しは奥さんの仕事だと思っている
  • 家族が病気になっても看病しない

などのことで、たとえばゴミ出しが奥さんの仕事だと思っているご主人は、会社に行くのにゴミステーションの前を通るのですから、奥さんとしては、そこを通るのならついでにゴミを捨てて欲しいと思って頼んでみても「ごみ捨てはお前の仕事だろ」の一言で終わり。

そのことで一度大ゲンカしても「誰が稼いでいると思ってんだ」「お前を食わせてやっているのは誰だと思ってんだ」などと言われたら、これはもう言葉の暴力であり、奥さんが何も言わなくなって病気がちになっても「早く治せ」と言われたら、もう離婚が近いのです。

こういった事に気が付かない男の人は意外と多く、変なこだわりが家庭崩壊につながっているのです。

天の上から神様が見ていたら「ゴミぐらい出しても何か損するようなことはありませんよ」「仏の世界では相手が喜ぶことしかしませんよ」と言われる訳で、まだまだ利他行の実践が足りないのです。

「こだわりは持っていても何の徳もしません」ということに早く気が付くべきです。