メシウマ

メシウマとは

メシウマとは飯が旨いということなのですが、現代ならではの意味が隠されています。

メシウマの意味

主に「2ちゃんねる」で使われるスラング(仲間内だけで使われる俗語)で、「他人の不幸で今日も飯がうまい」の略で、意味合いとしては「他人の不幸は蜜の味」や「幸災楽禍」とほぼ同じ意味です。

紀元前600年頃に書かれた「春秋左氏伝」に「幸災楽禍(災いを幸いとし禍いを楽しむ)」の記載ががありますが、他人が災難や不幸にあうのを見て喜んだり、楽しんだりすることは誰もが持つ感情として昔から存在するということなのです。

人の不幸で飯が旨いという経験

自分が勤める職場にとても嫌な上司がいて、いつも嫌味や小言ばかり言われ、その上司のせいで会社や仕事、人間関係まで嫌になり、電車に飛び込みたくなる位のノイローゼ状態になっていた時に、その上司が大きな失敗をして地方営業所に異動が決定したとしたら…。

人の不幸を喜んではいけないことと分かりつつも、内心大いに喜び、長年の苦しみから解放されて人生バラ色、希望に満ちて、こういう時に食べるご飯の何と旨いこと。

こういった経験は大なり小なり誰でもするもので、何かのお祝いにご飯を食べることは幸せの証、どうせ食べるなら旨いご飯を食べたいということは人類共通の願いなのです。

メシウマと野次馬

野次馬

火事場見物の野次馬の中には、本当に早く火が消えて欲しいと心の底から思う人と、もっと燃えろと思う人の2通りの人がいます。

早く消えて欲しいと思う人は家の持ち主が不幸になることを望まない人で、もっと燃えろと思う人は家の持ち主が不幸になれば良いと思う人です。

しかし何故不幸になれば良いと思うのでしょうか。

人は誰でも火事で家を失えば悲しみに暮れることになりますし、最愛の人を失くしたりすれば不幸のどん底に突き落とされます。

人が悲しみに暮れる姿はとても可愛そうなことですが、ある意味自分よりも不幸な人が居れば自分が優越感に立てることが出来て、その優越感に幸せを感じるという人は、他人がどんどん不幸になることを望むのです。

火事場の野次馬の中にはもっと燃えればメシがウマいと思っている人も居るのです。

事故でメシウマ

見物渋滞

首都高速では毎日何処かで事故が有り、渋滞が起こるのですが、その渋滞も事故が起こった道路だけでは無くて、必ず反対側の車線が渋滞し、この渋滞のことを「見物渋滞」と言うのですが、反対側の事故が起こっていない車線が渋滞するのは、わざわざ一旦停止して事故の様子を見てから立ち去るからなのです。

人の不幸をじろじろと眺めてから立ち去る見物渋滞は、高価な車が事故をしていたり、多数の車が巻き込まれていたり、人が挟まれていたりなどの時にはしっかり見たいという心理が働き、渋滞の列が長くなります。

事故の当事者同士が取っ組み合いの喧嘩でもしていればもう周囲はお祭り騒ぎで大渋滞です。

ご丁寧に車の窓から写メを撮ってから立ち去る人も居るのですが、話のネタとしての見物として、ウマいメシを食べるためのネタとして人の不幸をじろじろ見ているのです。

首都高速では都心部周辺での仕事や生活にくたびれ果てている人達のストレスが運転の乱暴さに繋がっているのでしょうか、日常的に無理な割込みや追い越し、幅寄せやあおり運転などが目に余り、うっかりしていると事故に遭う確率がとても高いのです。

こうした人たちのイライラが見物渋滞によって晴らされているのかもしれませんが、こういった見物渋滞の列にスピードを出し過ぎて突っ込む人もまた多いのです。

ざまーみろとメシウマ

ざまーみろとメシウマ

「ざまーみろ」とは「様を見ろ」のことで、人の不幸や失敗を心の中では愉快だと思いながらののしって言う言葉です。

本来は失敗したさまの醜さを知れ(失敗した醜いさまを自分でよく見てみろ)ということですから、自分の失敗を良く見てみなさいという意味なのですが、いつの間にか人の失敗を指すようになったようです。

使い方としてはとても乱暴な使い方ですので、「ざまーみろ」と「メシウマ」がセットになればかなり強烈な人の不幸の喜び方です。

人の心の中にあるメシウマ

人の心の中には必ず善の心と悪の心があって常に闘っているもので、他人の不幸を見た時に困っている人をなんとかして差し上げたいという仏の心と、不謹慎ながら見ていて愉快だと思う地獄の心が必ず闘っているのです。

自分の心が仏の心になるか地獄の心になるかは「綱引き」みたいなもので、その時の精神状態や過去の経験、価値観や倫理観などから仏になったり地獄になったりするものですが、ストレスや精神状態によって地獄の心しか出て来ないようになってしまえば、人の不幸が愉快でたまらないということになります。

妬み(ねたみ)嫉み(そねみ)とは

妬み嫉み(ねたみそねみ)は仏教では煩悩として捨て去るべき感情で、妬(ねた)みとは相手が羨(うらや)ましいのでその相手が憎らしいことで、嫉(そね)みとは相手が羨ましくて自分が悔しいことです。

妬み嫉みは相手が羨ましいことが原因なのですが、相手の何が羨ましいかについては、

  • 金持ちである
  • 収入が上である
  • 身分が上である
  • 立派な家に住んでいる
  • 高級車に乗っている
  • もてる
  • 幸せそうである
  • 仕事が出来る
  • 頭が良い

などで自分よりもお金があったり幸せそうであったりすれば、自分が悔しいことはもちろんですが、相手が憎らしくなってくるのです。

特に自分より年下なのに出世したとか、自分に不幸が続いている時に幸せそうな人が居てその幸せを見せつけられたりすれば憎しみは益々深くなっていきます。

最近のメシウマ

芸能界には仕事が出来て頭が良くて人気抜群、お金も稼ぎ豪華な家に住み、美女と結婚して幸せそうな家庭をもっている人が不倫を機会に人生転落ということがよくありますし、最近ではお笑いコンビのWさんが見事に撃沈してしまいました。

頭が良くてインテリでというイメージをぶっ壊す内容でしたから最高のメシウマニュースで、もうお腹いっぱいという方がたくさんおられることでしょう。

こういう事実をすっぱ抜くのは決まって週刊誌で、こういった特ダネがある時には週刊誌は爆売れですから、皆さん如何に他人の不幸でメシウマを狙っているかが良く分かります。

刺激が欲しくなるメシウマ

人や動物などの失敗は人類共通の興味ネタであり、メシウマのネタは私達の周りに普通にあるのですが、私達の脳はより強い刺激を求める習性がありますので、より強いメシウマをどんどん求めるようになってくるのです。

いつも普通に食べているメシはだんだんと飽きてくるものです。

しかしメシウマというものは人の不幸が材料ですから、より刺激の強いメシウマのためには相手に一層不幸になってもらう必要があるのです。

「人がどんどん不幸になって泣き叫べば最高にメシがウマい」、これってかなり危ないことではありませんか?

仏のメシウマ

仏ともなれば相手の不幸を喜ぶようなことは致しません。

出生食(しゅっさば)とは

高野山での修業中には肉や魚を一切使わない精進料理を頂きますが、食前に出生飯(しゅっさば)と言ってカワラケのお皿にまだ箸をつける前のご飯を読経しながら数粒乗せて順に回し、仏と一切衆生に供えるのです。

自分がご飯を食べたい気持ちは置いておき、まずは仏と一切衆生のために供えることを優先する出生飯は一切衆生の幸福を願っているのです。

極楽でのメシウマ

極楽浄土に初めて行った人が驚くのは、出されたお膳の箸の長さだそうで、異様に長いので自分のお膳を食べる箸には使えないそうです。

良く周りを見渡してみれば、何と相手に食べさせてあげるための箸だそうで、極楽浄土でメシウマ!と言って箸も使わず手でガッツいていたらもう地獄行き決定です。

本当に極楽ではこのようなお膳が出るかどうかは分かりませんが、極楽とは相手の幸せを願う者の集まる場だということです。

メシがマズくなってしまった方へ

そんなこと言われたらメシがマズくなってしまった。

ストレスだらけの世の中でささやかな楽しみとしてのメシウマなんだから好きにさせてくれ!と言う声が聞こえてきそうです。

別に相手に危害を加えるのではないから、相手の不幸を喜んでもいいじゃないか、とも思います。

しかしそれは、もしかしたら自分の不幸を願っている人が何処かに居るかもしれない、ということになるのです。

相手の不幸を願うことは止めよう

少なくとも相手の不幸を願うことだけは止めましょう、不幸というものは必ず連鎖してしまいます。

不幸は行ったり来たりしますし、親から子へ、子から孫へと引き継いでしまうのです。

誰かが止めないといけません。

人の失敗を笑ったりすることはよくあることで、罪の意識が無ければ構いませんが、不幸になれと願ったり祈ったりすることは大変に罪深いことなのです。