僧侶が散骨

近年は後継者がいないなどの理由で散骨を利用される方が増えて参りました。後継者がいないということは、お墓を管理していく人がいなくなるということで、管理費が払えなくなったり、お参りする人がいなくなったお墓はいずれ無縁墓になってしまいます。

ご先祖様を無縁にしてしまうと、無念の思いが残り続けますので、無縁にしてしまうことだけは避けなければなりません。

埋葬というものの本来の目的は土に自然に還ることを目的としていることを考えますと、大自然に還るという散骨はとても理に適っている訳で、自然に還るという性格上、一切のことにこだわらないことが求められ、例えば海の散骨でしたら、散骨した瞬間に遺灰はどんどん流れていくのですから、そこの場所には何も残らないのであって、その何も残らないというのが散骨の良い所であり、醍醐味でもある訳であり、散骨した場所にはもうこだわってはいけないのです。

しかし、人間というものは亡き人が大切な人であればあるほど、亡くなってからの空虚感というものは、時間が過ぎていく毎に増していき、支えてくれるものを失ったという喪失感と共に、深い心の闇になってしまうのです。

そういう意味ではお墓というものは、頼りになる場所といいますか、会いたくなったらとにかく行けば会えるような気がいたしますので、何かしらの救いを求める場所でもあるのです。

さて、散骨に対してはいつも皆さんに、お墓ではありませんから、場所的なことにこだわってはいけませんよ、と言い続けていますが、可能であれば少量の遺骨をお守りに入れて差し上げて、少しだけでも残すことをすすめているのです。

その残したお遺骨が入ったお守りを礼拝の対象としてお祀りすれば、それが要するにお墓の代わりになりますので、空虚感の感じ方が全く違う訳で、いつでも傍にいてくれるという感じによって随分と救われるものなのです。

その残したお守りは自分が生きている限り大切にして、自分のもしもの時には棺桶に入れてもらえば良いのです。そあすれば最後まで守り通したという満足感で心が満たされるのです。

こういった方法は全ての人に当てはまる訳ではありませんが、一人一人違う方法があるのですが、私はそういう所まで考えてお世話するものですから、いつもくたびれ果てしまうのですが、こういった性分なので仕方ないのです。

散骨しても心の中に墓を持つことが出来ますし、供養もすることが出来ます。目に見えるものだけが全てではありません、心の持ち方1つで、この世界が変わることもあるのです。