コロナと人口減少、少子化
我が国での人口減少、少子化、出生数の減少などの現象には共働きで時間的な余裕が無い、子供の必要性を感じないなどの様々な原因が重なっていると思われますが、その中でもコロナによる影響は見逃すことが出来ません。
外出自粛要請
ソーシャルディスタンスは新型コロナウイルス感染症拡大防止対策として提唱されていた「社会的距離」を意味する言葉です。
コロナが2類感染症だった頃にはコロナは爆発的な感染力と死に至る病として恐れられ、特に高齢者の持病の悪化による死亡が多いことから発症が確認されると指定病院に隔離入院の措置となり、濃厚接触者も自宅待機となることから、感染者数は毎日ニュースで流されて感染者が爆発的に増えてきたら不要不急の外出を控える外出自粛要請が出て、期間中は外食レストランやレジャー施設などは休業せざるを得ませんでした。
外出自粛要請が出ている期間はありとあらゆる産業がその影響を受けて休業もしくはリモートワークに切り替わって街は静まり返り、ただひたすらに自宅で待機するしかないのですから、人と人との出会いも無ければ交流も無しで、このようなパンデミックの状態が頻繁に起これば仕事帰りに飲みに行ったり休日に遊びに行くような機会が無くなってしまいます。
人と人との出会いの機会が減ると当然の結果として婚姻数が減り、出生数も減るのです。
ソーシャルディスタンス
しかしながら私達の心の中に深く定着したマスク着用とソーシャルディスタンスの影響で無意識に人と人との距離を取るようになっていることから、次のような弊害が出ているのです
- 人と会いたくなくなった
- 外に出かけるのが億劫になった
- 人ごみの中に居ると気分が悪い
- 家庭の中で会話が少なくなった
- リモートだと話が出来るのに目の前に人が居ると話が出来ない
ソーシャルディスタンスは人と人との出会いの機会を少なくし、コミュニケーションを希薄にしますので、結婚する人の数が減り、家庭の崩壊が増え、我が国の人口減少に益々拍車をかけているのです。
新型コロナという死の恐怖から逃れるために導入されたソーシャルディスタンスによる人と人との社会的距離は私達の心の中に深く根付いてしまっていますが、人と人とのコミュニケーションは本来、どれだけ相手に近付けるかということが安心の目安となりますので、信頼できない人との距離は遠く、信頼出来る人との距離は近くなるのです。
人と人との距離が離れれば離れる程相手との信頼関係が薄れてくるのです。
マスクの弊害
私達の子供の頃にはマスクを付けている人は風邪を引いて咳が出る人などのほんの一部の人であり、現代のように使い捨てのマスクがありませんでしたのでマスクの普及率は低かったのですが、近年では花粉症の人が増え、高性能の使い捨てマスクが普及したことから、夏でもマスクを着ける人を普通に見かけるようになりました。
コロナが流行してからは使い捨てマスクの需要が爆発的に増えて在庫が無くなり、一時期はマスクが法外な高値で取引されるようになり、とにかくメーカーの在庫が無い事態となり、国から全ての国民に対してマスクが配給され、医療機関や公共機関、電車、航空機などにはマスクが無いと入れないようになり、航空機でのマスク着用拒否の乗客が強制的に降機させられる事件も起こったほどです。
常時マスクを付けていますと相手の顔の輪郭がよく分からないので、相手の顔を覚えにくい、口元が見えないので喜びや悲しみの表情が伝わりにくいなどの弊害が生じます。
コロナ渦の状況では相手と話をするにしても透明のアクリル板越しにマスクを付けての会話ですから、相手の声が聞き取りにくく、表情が分かりにくいいのでは、話をするのが苦痛になってしまいます。
コロナとの共存
コロナの撲滅は不可能と分かり、今では5類感染症となってインフルエンザと同じ扱いになった以上、コロナと共存するしかありません。
これからの時代の過ごし方
ウイルスを媒体としたコロナは次々と新型に変異しては爆発的な感染を繰り返して終わりの見えない感染症であり、世界で累計700万人と言われるコロナによる死者を出しながらも終息の気配が無く、我が国では5類感染症に移行した現在でもコロナはインフルエンザの約20倍の死者を出していることから、死に至る病として認識され、感染防止のための対策であるマスク着用とソーシャルディスタンスの厳守はどうしても人と人との距離を遠ざけてしまいます。
密教に於ける入我我入、即身成仏は私達と仏との距離を近づけていく修行で、その距離が極限にまで近づいた時に仏と自分が一体化することから、如何に仏との距離を近づけるかということが日々の修行の目標になるのです。
男女の出会いにしてもお互いに近い距離に居ても安心感が得られ、スキンシップで触れ合うことがあっても違和感なく受け入れるということがお互いの信頼の証であり、更にはどんなことでも安心して話が出来るという事でお互いの理解が深まるのですから、距離を縮めるということがとても大切な事であるにもかかわらず、コロナは人と人との距離を遠ざけてしまうのです。
我が国全体で人と人との距離が離れて出会いの機会も減り、新しい出会いがあってもお互いの距離が縮まらないような状況では人口の減少に歯止めがかかることなく、婚姻数、出生数の減少が加速的に進むのは仕方のない事かもしれませんし、政府の少子化対策が根本的に間違っていると言わざるを得ません。
これからの時代は未知の感染症が次々と人類に襲い掛かってくるでしょうし、将来の人類は閉じられたカプセルの中でしか生きていけないようになるかもしれませんが、本来私達は地球上の生命の一員であり、どのような環境の変化があったとしてもその環境に対応した者が生き残り、対応出来なかった者は滅びていく運命なのですから、科学や医学が発展しても克服できない未知の部分が依然として存在し、病と死は釈迦以前の人類の歴史においても避けることが出来ない苦しみとして今もあり続けているという現実を見なければいけないのです。
毘沙門天信仰とコロナ
毘沙門天が妃の吉祥天と子の善膩師童子と共に家族の姿をとって人としての幸せを示して居られるのは、たとえどんな困難な時代になっても家族を大切にして外敵から身を護り、家庭の中を平和にすることの大切さを説いて居られるのです。
毘沙門天は外敵の侵入を防ぐ神ですから、毘沙門天の御札はコロナ除けにもなります。
コロナ除けの御札は…疾病退散、コロナ除けの御札
但し外敵から家族を護ることは自分達も為すべきことがあり、うがい、手洗い、消毒などはもちろんのこと、乱れた生活をしないこと、自分本位ではなく相手を思う利他行の実践が大切であり、実践のための力を授けて下さるのが毘沙門天なのです。
今とっなてはコロナはインフルエンザ同様の扱いになって、誰もが掛かる可能性のある感染症ですが、掛からないように気を付けること、更には掛かったにしても人に移さない気遣いをすることで被害を最小限に抑え、心身の浄化を心掛けながらも、人と人との出会いを大切にしていきましょう。