供養は本来、仏、菩薩、諸天などに香・華・燈明・飲食などの供物を真心込めて捧げることで、お供え物を捧げることなのです。


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供養は相手が喜ぶものを捧げること

供養

相手を喜ばせたいと思ったら、物をあげることが一番ですね、

もちろん、物ではなくて、お金でもいいんです。

今の時代、物よりもお金をあげた方が喜ばれるかもしれません。

お金なら、本当に自分の欲しい物が買えるからです。

生きている人を喜ばせるには

あげるということ

生きている人を喜ばせるには、相手が欲しい物をあげるのが一番です。

例えば子供の誕生日に、予め何が欲しいか聞いておき、

ゲームが欲しいのであれば、お誕生日のプレゼントとして、

かわいい包装紙に包んで渡せば、包装紙を開けた瞬間の笑顔は最高のもので、

日頃は親に反抗していても、当分は素直になれるものです。

また近所の方にちょっとしたお願い事をするのにも、

何か物を持って行ったら、気持ち良く協力してくれるものです。

このように、人の心まで変えてしまう物は、

人と人とのコミュニケーションに是非とも必要なものです。

仕事の人間関係では、お歳暮やお中元なども、かなり形式化していますが、

付き合いをうまくやっていく上では、是非とも必要なものなのです。

喜んだ結果として得られるもの

喜ばせるということ

人に物をあげて得られるものは、

何かあった時に協力してもらえるということです。

特に会社などで出世しようと思ったら、自分一人の力では無理で、

上司や周りの人の協力が必要ですから、

物というものは、良い結果を導き出すのに、どうしても必要なのです。

本末転倒

本末転倒

物をあげたから協力してくれ、或いはあの人にはこれをあげると

協力してくれるだろうと思うのは間違いで、見返りを要求する行為となり、

見返りを要求すればかえって人間関係がこじれてしまいます。

また、高価すぎる物をあげることは、もらった者にとっては、

「これは何かをさせられるのではないか」という警戒心を抱くだけであり、

これもまた逆効果なのです。

見返りを要求しない

見返り

物をあげる方の心得ですか、基本は「見返りを要求しない」ことで、

たとえ何かの事情があって協力してくれなかったとしても、

気にしないことです。

今回はダメでもいつかは協力してくれる、ぐらいの気持ちを持てば、

実際にそのようになるのです。

物に見返りの気持ちを込めて渡すこと自体、時限爆弾を渡すようなもので、

結果として人間関係を壊してしまいますので、あげる時には、

決して見返りを期待しないこと、これが大原則なのです。

この原則は物ではなくて、行為ということにも通じます。

例えば喧嘩した時に「謝る」ということで言いますと、

喧嘩両成敗ですから、どちらも悪いということで、

こちらが先に謝っても、向こうが謝らなければ損をするじゃないか、

と思いますよね、これが見返りを要求するということで、

素直に謝るという行為を阻害しているのです。

謝るにしてもどうせお金は要らないのですから、タダなんですから、

謝ってしまえばいいものを、謝らない、これがプライドであり、

プライドなんて、生きていく上には何の必要も無いもので、

何の見返りも期待せずに先に謝る方が人として素晴らしい人なのです。

今は損したと思うかもしれないけれど、いつかは必ず報われるのです。

神仏、亡き人を喜ばせるには

亡き人

生きている人は目の前で反応を示してくれるから、

喜んでくれたかどうかは、とても分かりやすいものですが、

神仏や亡き人は私たちの目の前に見える訳ではありませんので、

反応を見れないという意味では、とても難しいことです。

しかし、神仏や亡き人を喜ばせる物は、昔から決まっていて、

それが香・華・燈明・飲食などの供物なのです。

適当に誰かが決めた訳ではありません、どれもちゃんとした理由があるのです。

香とは

線香

香とは香木あるいは香木を粉にしたもの、練って棒状にしたもので、

皆さんがよく使うものとしては、仏壇やお墓参りの時にあげるお線香です。

火を付けて良い香りがし、煙が出ることから、

香りは周りを清めて清浄な世界にし、煙は上に上がっていくことから、

一筋の煙が私達の世界と向こうの世界をつなぐ役目を果たすのです。

昔から言われていることですが、死者の食べ物は香であり、

あの世に行くのに香を食べながら行くので、通夜の時に線香を絶やさないのは、

途中でお腹が空かないようにとの気配りなのです。

本来は一晩中線香が途切れないように注意して見守ることが

死者への思いやりなのですが、葬儀社もよく考えたもので、

蚊取り線香のようにぐるぐると巻いた線香を準備してくれるので、

今の時代、線香が途切れるという心配は無くなりました。

華とは

華

華とは花のことで、見る者全てに安らぎを与え、良い香りがすることで、

清浄な世界を演出してくれます。花は供える時には、神仏や、

亡き人の方に向けるものではなく、こちらの方に向けるものです。

荘厳と言って、尊い方の周りに飾り付けして、

有難い雰囲気にすることが大切なことです。

供える花としては、トゲのある花(バラなど)や、毒のある花(彼岸花など)、

咲いた後に首からポトッと落ちるような花(椿など)は、

縁起が悪いとして使われません。

燈明とは

燈明

 

燈明とは、ロウソクや燭台などの灯りのことです。

燈明は、周りを明るくする役目を持ち、行く先を照らすという役目もあります。

また、火というものは、汚れたものを浄化するという役目も持っています。

死者があの世に旅立つ通夜の時に、ロウソクを絶やさないのは、

道に迷わないようにとの配慮からであり、死者の行く先を照らすという

大切な役割があるからです。

最近の仏壇にはロウソクの形をした電球や、LEDのロウソクが付いていますが、

本来の燈明は、自然の火がユラユラと灯ることが大切なのですが、

仏壇のロウソクの火を消し忘れて家が火事になるようなことも実際にあるので、

特に一人暮らしの高齢者には危険なものです。

LEDは火というより、光の要素が強いので、本来の目的は果たしませんが、

供える人がロウソクだと思って供えれば、ロウソクになる、

これが宗教なのです。

飲食とは

飲食

飲食は「おんじき」と読み、飲み物や食べ物のことです。

私達が普段食べているものと同じという概念で構いません。

但し、基本は果物や菓子、仏飯、米、料理では精進料理で、

肉や魚は使わないものですが、漁村では恵比須様に鯛を供えたり、

年末に鮭を供えたりもします。

仏壇にご飯を供える場合には、朝一番の炊き立てのご飯を、

誰も食べない内に、最初に盛り付けして供えることが大切です。

誰かが食べた残り物を盛り付けするようなことをしてはいけません。

しばらく供えた後には、下げてから食べても構いませんし、

外に置いて餓鬼に施しても構いません。

高野山では、修行中に毎日施餓鬼と言って、空のお椀を順に回し、

皆のご飯からほんの少しだけのご飯を入れていき、

皆のご飯が入ったお椀は、外にいる餓鬼に施しているのです。

餓鬼は、目に見えないですが、私達の世界の周りにいて、

絶えず空腹で満たされることがないのですが、

施したご飯に満たされることと、もう一つは施すという心に触れることで、

仏性を目覚めさせることが供養につながるのです。

供養は供える行為である

供養

私たちは人を動かすにも、神仏や亡き人とつながるにも、

現実にある物を使いますが、特に目に見えない方々は、

物で喜ぶのではなくて、供える行為を喜んでくださるのです。

今の私達には、生きている人たちの力ももちろん必要ですが、

目に見えない方々の力の方がむしろ大切で、

こういった力は、目に見える世界をも動かしてしまうのです。

供養は極端な話、物が無くても同じことが出来るのですが、

どうしても物が無いと理解できないのは、むしろ私達であり、

例えば仏像もしかり、仏像の形をした仏様が歩いている訳ではなくて、

仏様を私達の分かりやすい形にしたものが仏像なのです。

例えば屋外のお地蔵様、皆に慕われて、触ったり、撫でられたりしていますが、

親しみやすい人間の形をしているからこそ、

親しく語り掛けることが出来るのであって、

お地蔵様が天の上にいるからね、なんて話をされてもピンとこないのです。

人のような姿をしていて、そこにいるからこそ、親しみが持てるのです。

ロウソクや線香などが危ない、臭い、ダサいと言って嫌われてますが、

亡き人の供養には必要なもので、

私達が生きている人たちと付き合っているのと同じように、

目に見えない方々と接することにより、大きな力が得られるのです。

体にも栄養が必要ですが、心にも栄養が必要だとしたら、

供養とは、「供えることによって心の栄養を蓄える」ことではないでしょうか。


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