目次
人と会いたくない時
今日はせっかくの休みだけど、人に会いたくない…こういう事は誰にでも必ずあることで気にする必要はありませんが、放っておけば深刻な病気になることもあります。
会いたくない原因
人と会いたくない原因には心の中の原因と心の外の原因があります。
心の中の原因
心の中の原因で人と会いたくないとは
- 他人の目線が気になって仕方ない
- 他人が自分の悪口を言っているみたいに感じる
- 他人が自分のことを悪く思っている
- 他人と話をしても楽しくない
- 話が合わない
- 嫌いなタイプの人である
- 一人になりたい
などの理由で、他人が全て悪意ある人のように感じるために、自分の心の中に壁を作ってしまったり、他人を避ける、逃げるなどの心の作用が働きます。
心の外の原因
心の外の原因で人と会いたくないとは
- 暴力を受けた
- ひどい言葉で中傷された
- バカにされる
- いじめられる
- 脅迫された
- 会えば何をされるか分からない
- 人から騙された
などの理由ですが、実際に暴力を受けたりの恐怖心が原因で人と会いたくないというよりは、外に出られないという状態です。
家庭内暴力でたとえは夫婦間での夫の暴力の場合には、会いたくなくても家の中に一緒に居るというだけで苦痛になり、激しいストレスになってしまいます。
その他の原因
人と会いたくないその他の原因としては、
- 波長が合わない
- 霊的なものを感じてしまう
- 趣味が合わない
- 雰囲気が合わない
- 価値観が違う
- 気分が進まない
- 体が動かない
- 病気だと思う
などで、人に会いたくないと言っても実に様々な理由があるのです。
最近の傾向としては新型コロナの影響で外出自粛や在宅勤務が増えたことによって人と会う機会が減ったことが孤立化を促進しています。
人に会いたくない時
人に会いたくない時には会わないで構いませんし、気にすることではありません、しかし長期間続きますと病気です。
約束したのに会いたくない
会う約束をしたのに会いたくない時には、体調が悪いなどの理由を使ってなるべく早めに相手に連絡しましょう。
仕事上の約束でしたら上司に相談して代わりの人に行ってもらうなどの措置を取り、行きたくない理由を正直に述べて相談しましょう。
相談しても「それはわがままだ」などと言われてしまうかもしれませんが、なるべく自分に理解してくれる人を味方につけておきましょう。
嫌いな人がいる
人と人とはどうしても相性というものがあって、好き嫌いがあるのは仕方ないことです。
嫌いな人に会うのかと思っただけで憂鬱になってしまって、人によっては動けなくなってしまうのです。
仏教では人の苦しみは「四苦八苦」と言って、四苦の時には
の苦しみがあって、八苦になれば「生老病死」の他に
- 「愛別離苦」…愛するものと別れてしまうこと
- 「怨憎会苦」…嫌いな人と会わなければいけないこと
- 「求不得苦」…求めたものが得られないこと
- 「五蘊盛苦」…人間の体の感覚や心から出てくる五つの作用による苦しみ
が加わりますが、この中の「怨憎会苦」(おんぞうえく)は「嫌いな人と会わなければいけないこと」であり、この苦しみは遥か昔から存在する人間社会特有の苦しみなのです。
好きな人と一緒に居ることは楽しいけれど、嫌いな人と一緒に居るのは苦痛なのです。
「怨憎会苦」は誰もが生まれつき持っている苦しみなのです。
家庭内
最近では子供が家から巣立った後の夫婦の「家庭内別居」が増えていて、同じ家の中で暮らしているけれど、食事以外は全部別の生活であったり、何もかもが全て別の生活ということもあり、何日も顔を合わせていないという夫婦も珍しくありません。
また親子で暮らしていても子供が学校から帰ってきたら自分の部屋に閉じこもって出てこないということもあります。
家庭内で家族に会いたくない原因としては
- 妻や夫の暴言、暴力、浪費
- お金のために仕方なく居る
- 性格の急変
- 性格の二面性
- 理解できない趣味
- 子の反抗期
- 嫁姑の不仲
などの理由ですが、家族なので会わないというわけにもいきませんし、毎日我慢していたら頭が変になってしまいます。
登校拒否
子の発達障害や学校内のいじめなどで友達と話せない、会いたくないなどの気持ちがあれば精神的に不安定になったり、学校に行きたくない素振りを見せますので、親の立場としては子供と常にコミュニケーションを取って、何でも話が出来るようにしていることが大切です。
子供を救ってあげることが出来るのは親しか居ないので、行きたくない時には無理して行かせようとせずに、行きたくない理由をじっくり聞いてあげることです。
案外友達関係やいじめなどが原因の時がありますので、親子間ではどうにもできない時には担任の先生に正直に話をして気を掛けてもらうなどすれば案外うまくいくことがあります。
いずれにせよ早い内に気が付いて早めに手を打てば傷も浅くて済みます。
「皆が行くから行きなさい」とか「お父さんに叱られる」「勉強が遅れる」などの理由で無理やり行かせることは良くありません。
少々学校に行かなくても進級できないことは絶対にありませんし、遅れたものもいずれ取り返せます。
絶対に行かなければいけないという恐怖心を植え付けてはいけません。
子供も自分なりに考えて行動しているのですから、考えを尊重してあげることと、納得のいく説明をすること、親の考えを無理やり押し付けないこと、そしてあなたのことを一番思っているのですよ、という姿勢が必要です。
仏教では人に会わないのも修行
人に会うことなく百日間堂に籠って虚空蔵菩薩の真言を唱え続ける虚空蔵求聞持法や天台宗の千日回峰行など、荒行と言われる修行は神仏との交流のみを求めて自らの心の内面と向き合う厳しい修行です。
人と会わない理由は
など、修行にとって必要の無い情報を一切断つことが目的なのです。
私達の心は普通に生活していたら余計なものばかり詰め込まれていて、そういった情報が煩悩の原因になったり間違った判断の原因になったりしているのです。
そういった情報を全て消去してリセットするのが虚空蔵求聞持法なのであり、虚空のような入れ物を手に入れることが出来れば、どんどんいろんなことを吸収することが出来て、結果として天才になるという修行法です。
そういう意味ではたとえ百日ぐらい全く人と会うようなことが無くとも、修行だと思えばしっかり自分の内面を観察することが出来るのです。
困難な状況で苦しむばかりではなく、修行だと思えば、前向きに進むことが出来るのです。
放っておくと
人に会いたくない時には会わなければ良いのですが、それでも会ったらどうしよう、などと考えること自体がストレスになるので、ストレスは蓄積すると確実に何かの病気を引き起こします。
精神的にうつ病のような病気になることもあれば、肉体的な痛みとなって現れることもあります。
病気になってしまってもその原因がストレスだと気が付かないこともあるのです。
特に家庭内暴力などで嫌でも毎日会わなければいけない時には恐怖心が多大なるストレスになって「早く解放されたい」「楽になりたい」などのことを考えるようになるのです。
家庭内暴力が激しくて身の危険を感じるようでしたら行政の保護を利用する方法もありますので、とにかく自分一人だけで悩まないで、相談できる人が必要です。
どんなことがあっても生きてさえいればやり直すことも出来ますし、違う環境に身を置くことも出来るのです。
病気のこともあります
人に会いたくないという症状が何か月も続ているような場合には間違いなく病気で、病院に行くべきですが、内科や外科でもなくて精神科ということになります。
放っておきますと学校や会社に行けない、家に閉じこもる、何もできない、幻聴や幻覚が出るなどの症状が出てきます。
精神の病気は薬で治ることもありますが、副作用が出たり、症状が軽減しても治らないようなこともあります。
心の治療は人にしてもらう部分も大切ですが、自分の心ですから、自分で治すものです。
宗教は自ら心の中を良く観察して心の持ち方を変えていくことを説きますので、考え方を絶対に変えないという人や宗教なんて何の役にも立たないと思っている人は治りません。
魂を綺麗にして向上させることにより、自然と治るもので御座います。
インチキ祈祷、占いに騙されないように
このようなことに騙されないようにしましょう
眼に見えない世界を説くのが宗教ですが、そのような世界には低いチャンネルもありますよ。
低い世界のチャンネルばかり見ていますと抜け出せなくなります。
もっと高いチャンネルもありますので、チャンネルを合わせるのは自分の責任です。
チャネリングは自分の魂の波長を相手の世界の波長に合わせることです。
人間の世界は結構高いチャンネルですが、堕落していけば当然合わさるチャンネルも低くなっていきます。
しかしわざわざ低いチャンネルに合わせる必要はありません。
執着を捨てること
私達はどうしても捨てきれないものにこだわってしまいますが、果たして「プライド」や「価値観」「好き嫌い」などの執着にこだわって、大切なものを失っているのです。
執着とは
執着とは物事に対する拘りで、こだわりの強い人ほど執着が凄まじく、自分のことは褒めてくれたら嬉しいけれど、他を絶対に認めない、認めたくないという人が自慢に思っている「うぬぼれ」です。
執着は煩悩ですから、人に対して分け与えることが無く、まだ欲しい、もっと欲しいという燃え盛る炎の心を持ち、人の物を取っても罪の意識がなく、いつまでも満足することの出来ない心です。
究極の執着は、こだわりの心に支配されてしまって、人を傷つけても気が付かないようにっなにてしまいます。
諸行無常
ご主人の生前中は随分と趣味にこだわって奥さんにお金を渡すこともなく自分の趣味の収集にばかりお金を使っていたけれど、死んでしまったら全部捨てられた。
とことんこだわりつづけた物であっても、死んだらあの世に持って行くことは出来ませんが、人間なんて、そのような物にこだわり続けているのです。
生きている時には誰にも触らせない、執着の塊のような趣味でも、永遠に続くことはなく、死んだら見事に捨てられるのですから、何のためにこだわってきたのでしょうか。
自己満足と言われても仕方のないことに案外私達はこだわり続けているのです。
「諸行無常」この世の中で永遠に続くものは何もない、この事実を悟るべきです。
捨てることで楽になる
私達はたくさんの物に囲まれて暮らしていますが、物だけではなくて、知らないうちに身に付けてしまった様々な「常識」や「理想」「感覚」で人を好きになったり嫌いになったりしています。
「常識」なら
- 何かしてもらったら礼を言うべき
- 目上の人には敬語を使う
- 汚したら綺麗にする
- 食べた後の自分の食器は洗い場まで持って行く
- 靴を脱いだら並べる
- 服を脱いだらハンガーに掛ける
などのことで、「理想」とは
- 背が高い人
- 礼儀正しい人
- 服のセンスが良い人
- 気が利く人
- 言葉遣いが丁寧な人
- 傍に居ると安心できる人
などのことで、「感覚」とは
- 見た目が良い
- 歌が上手い
- 味の好みが良い
- 心が美しい
などの情報が私達の心の中に蓄積されていて、人を好きになったり嫌いになったりするのです。
しかし以前好きだったけれど、今は嫌いになってしまったなどの心変わりや、人としての気持ちの移り変わりもありますので、そういった好き嫌いの情報は時々刻々と変化しているのです。
こういった価値観は例えばテレビドラマや映画を見て突然変わることもあります。
嫌いなタイプの俳優さんが出てくるドラマをたまたま見たけれど、内容の良さに涙がでるほど感動してしまい、いつの間にか好きなタイプになっていることもありますし、逆に好きなタイプの女優さんが結婚したら嫌いになったなどのこともあります。
このようにして、何時何処で変わるかもしれない価値観にこだわり続けることはあまり意味の無いことであり、嫌いだと思っている人であっても、「好き嫌いなんてどうでもいい」と思えば実際に価値観が変わるのです。
もっと言えば嫌いだからと避けていても何の徳もしないのです。
好きにならなくても良いですから「気にしない」「こだわらない」という心を持てば嫌いだったものが目の前から消えていくのです。
「気にしない」「こだわらない」は立派な仏教の悟りです。
毘沙門天流対処法
私は毘沙門天を信仰している関係で、最後には毘沙門天信仰に結び付けますが、毘沙門天の足元で踏まれている邪鬼は元々とても悪いことばかりする鬼であって、世の中の嫌われ者だったのですが、毘沙門天に説教されて改心し、使いとして真面目に働くようになったのです。
邪鬼は毘沙門天の足元で踏まれて苦しそうにしていますが、元々が鬼なので、しかめっ面は仕方の無い事、精一杯喜びの顔をしているつもりなのです。
毘沙門天にしても嫌われ者の鬼は退治してしまえばよかったのですが、配下にしてしまうなんて、何と心の広いお方、毘沙門天にとっては嫌われ者の鬼なんて全く「気にしない」「こだわらない」存在なのです。
- 悪いことをしてきたから気に入らない
- 悪いことをしてきたから許さない
- 悪いことをしてきたから滅ぼしてやる
ではなくて、「過去のことなど気にしない、今どうするかが大切だよ」と説いておられるのです。
何をしたらよいか分からない方は無料相談御利用下さい、私清野徹昭がお答えしています。
無料相談専用電話(朝9時~夜8時) 043-228-1480
自分ではどうにもできないという方は祈願して差し上げます。
お金儲けのぼったくり祈願ではありません。