罪滅ぼしとは

禅海和尚のイラスト

罪滅ぼしとは善行を行うことによって過去に犯した罪のつぐないをすることです。

償いとは

過ちに対する意識-懺悔

償いとは自ら犯した罪や相手に与えた損害に対して金銭や労働、品物などによって埋め合わせすることです。

誤って他人の持ち物を壊してしまった時に修理をしたり同等品を買って返すことを弁償と言いますが、損害に対する埋め合わせの行為になります。

償いには埋め合わせ出来ることと、埋め合わせ出来ないことがあり、たとえば子供がボール遊びをしていて、近所の家のガラスを割った時には謝りに行って、ガラスの交換代金をお支払いすることが償いになりますが、怒りの感情を抑えきれなくて人を傷付けたり、殺傷するようなことをしたら、刑務所に入って反省の日々を送り刑期を全うすることは大切な償いですが、傷が治らない限り、亡くなった人が生き返らない限り、償いが終わることはありません。

青の洞門

青の洞門のイラスト

青の洞門とは大分県中津市本耶馬渓町樋田にある手掘りのトンネルです。

このトンネルは大分でも風光明媚な名称として知られる耶馬渓に面する山国川に面してそそり立つ競秀峰の裾に位置する全長342mの観光名所です。

急峻な地形のこの地は昔から交通の難所として知られ、岩肌に沿ってつながれた丸太の上を鎖につかまりながら渡るという危険な道であり、青野渡(あおのわたり)と言われ、数多くの人馬の命が失われたそうです。

川に落ちるイラスト

曹洞宗の僧である禅海は諸国巡業の旅の途中、豊後国の羅漢寺に参拝した時に、青野渡が危険で昔から大勢の人馬の命が失われたことを知って、その場所にトンネルを掘ればこれ以上命が失われることなく、安全に渡ることが出来ると思い、1730年頃豊前国中津藩主の許可を得て掘削を開始し、30年の年月をかけて1763年(宝暦13年)に完成させたのです。

禅海和尚の伝承

この青の洞門を30年の歳月をかけて完成させた禅海和尚がトンネルを手掘りで掘り続けたことに関しては伝承が残っており、実は殺人の罪滅ぼしのためだったということで、1919年に発表された菊池寛の小説「恩讐の彼方に」にも登場しています。

禅海和尚は出家する前の名は福原市九郎と言いましたが、ふとしたことから自分を世話してくれた中川四郎兵衛という武士を殺してしまい、江戸から逃げて山中をさまよううちに出家して禅海と名乗り、雲水としての諸国行脚の旅の途中に訪れたのが大分の羅漢寺だったのです。

禅海和尚が自らの罪滅ぼしのために、残りの人生を全てトンネル堀りに捧げると決心したからこそ出来たトンネルであり、最初は馬鹿にしていた地元の人も和尚の情熱に負けて手伝うようになったそうです。

運命の事件

禅海和尚のイラスト

毎日休むことなく掘り続けたトンネルも26年目となり、あと少しで完成が近付いた時に中川四郎兵衛の子である実之助が親の仇を討つためにやって来ました。

禅海和尚は観念した様子でしたが、村人の懇願もあって、もう少しでトンネルが完成するからあと3年待ってくれたら首を差し出すと約束し、実之助は禅海和尚を毎日見張っていましたが、和尚の姿に打たれて手伝うようになり、ノミを持って掘ったそうです。

それから3年の歳月が経過してトンネルは完成し、和尚は約束通り実之助に首を差し出しますが、実之助は黙って去っていったという話です。

罪滅ぼしの人生

同行二人のイラスト

誰にでも大きな過ちは必ずあるもので、責任を取ることなく逃げてしまったり、時間の経過と共に忘れてしまっているだけです。

世の中には悪事を働いても幸せそうに暮らしている人がたくさん居て、正直で真面目な自分が幸せになれないものですが、人の幸せは決して外見では分からないので、気にしても仕方ありません。

所詮人のことは人のことで、自分の事は自分の事で良いのです。

人と比較してはいけません。

過去に悪い事を散々したと思った人は昔から出家することが多いのですが、この世での罰も怖いのですが、あの世の地獄で永遠に苦しむようなことがあってはもっと恐ろしいから仏にすがるのです。

しかし仏門に入って仏に救いを求めても、仏はそんなに甘い存在ではなくて、まずは人間世界で罪を償いなさいと叱られるだけのことで、禅海和尚は羅漢寺でそういう仏の声を聞いたのでしょう。

殺生して逃げることは良くないことですが、仏道に触れたことで罪の償い方を学び只ひたすらに残りの人生を捧げる姿は敵を討ちに来た者の心さえ動かしてしまうのでした。

30年間毎日休まず金槌とノミだけで岩盤のトンネルを掘るなんて中々出来ないことですが、私達の人生も所詮、罪滅ぼしの人生のようなものです。

罪滅ぼしのために毎日休まずに続ける何かを早く見つけましょう。