邪鬼、悪鬼とは

毘沙門天の邪鬼

毘沙門天にいつも踏まれているのは仏法を犯し、悪をばらまくという邪鬼で悪鬼とも言われます。いつも踏まれっぱなしで苦悶の表情をしているのですが、良く見ると愛嬌のある顔をしていて、大袈裟に苦しいような演技をしているようにさえ見えます。

邪鬼、悪鬼の由来

鬼門の由来

現代のように科学や医学が発展した時代には災害が起こっても悪鬼の仕業だなどという人は居なくなりましたが、古の時代には病気や災害、特に疫病は伝染して広がって多くの犠牲者を出すことから悪鬼の仕業だとして悪鬼を退散させる祈祷やまじないなどが行われていたのです。

私達が2月の節分に行う豆まきの行事にしても「鬼退治」ですから私達と鬼との関係は現代の生活にまで深くかかわっているのです。

節分の豆まき

節分の豆撒きのイラスト

節分とは各季節の始まりの日である立春、立夏、立秋、立冬の前日のことで、季節を分ける日を意味し、この日には魔が入りやすいことから豆撒きなどの魔除けの行事を行います。

節分の時には炒った大豆を「鬼は外福は内」などの掛け声と共に家の内外に撒いて、家の中に居る鬼を追い出し、更には福の神が家の中に入ってくるように願う行事です。

鬼は災いをもたらす存在ですから追い出して、福の神に幸せを授けてもらうことが大きな目的です。

節分の豆まきに使う煎り豆は「五穀」(米、麦、ひえ、あわ、豆)の中の一つであり、災いを祓い清める力を秘めていると信じられているのです。

外の鬼

疫病神のイラスト

鬼は私達の心の中と外に居て、外に居る鬼は災いをもたらしたり病気を運んできたりします。

厄病神は家の中に住み着いて、住んでいる人に対して病気や災難などをもたらします。

こういった鬼は居心地が良ければいつまでも住み着きますが、主が居なくなったり、祈願などで追い出されることがあれば逃げ出します。

心の中の鬼

野次馬

子供に対して甘やかしてばかりいたので自分で物事を決めることが中々出来なくなってしまったけれど、今日ばかりは「心を鬼にして」突き放し、自分で決めさせようと思う。

この場合の鬼とは自分の心を鬼にすることで、鬼のように無慈悲なことを敢えて行うという意味です。

私達の心の中には鬼の心と仏の心の両方があって、例えば火事で燃えている家を見ても「早く消えて欲しい」と思う仏のと「もっと燃えろ」と思う鬼の心があり、交通事故の現場付近を通過するにしても「早く助けてあげて」と思う仏の心と「乱暴な運転するからだ、ざまーみろ」という鬼の心の両方が存在するのです。

毘沙門天功徳経と鬼

邪鬼

毘沙門天王功徳経には弟子の阿難の「どういう因縁があって、両方の足で羅刹毘闍舎鬼を踏んでいるのですか」という質問に対して釈迦は「邪鬼は悪業や煩悩を押さえつけるために踏んでいるのです」と答えます。

邪鬼は鬼として悪事を働くと共に、私達の心の中にもいて悪い心を働かせるのが仕事であり、世の中には善と悪が必ず同時に存在し、仏法の世界では常に煩悩との闘いがあり、毘沙門天は仏法を犯そうとする悪い邪鬼を踏むことによって、仏法を護ると共に、邪鬼を正しい方向に向かうように教え導いているのです。

私達は何かのミスをしてしまった場合に、心の中で、「黙っていれば分からない、人のせいにすれば良い」という悪の気持ちと、「素直に謝ろう」という善の気持ちの葛藤があります。

また、相手を傷つけてしまった場合には、心の中で「絶対に相手が悪い、自分は正しい」という悪の気持ちと、「やっぱり自分も悪かったかな」という善の気持ちの葛藤があります。

そういう時には毘沙門天の前に座って心を落ち着けますと、自然と答えが出てくるものです。