阿難とは

阿難尊者

阿難は釈迦十大弟子の一人であり、アーナンダ(阿難陀)とも言い、釈迦の侍者として傍に居て常に説法を聞いていたことから多聞第一と呼ばれました。

阿難の経歴

僧侶の説明

阿難は釈迦の従弟で、釈迦が成道した夜に生まれたとされ、父である斛飯王(こくぼんのう=ドローノーダナ)が兄であると共に釈迦の父である浄飯王(じょうぼんのう=シュッドーダナ)に阿難の誕生を知らせた時に浄飯王はとても喜んでアーナンダ(歓喜)と叫んだことから名付けられたとされています。

女性の出家

女性の出家

阿難は釈迦の在世中に釈迦の養母である摩訶波闍波提(まか・はじゃはだい=マハー・プラジャパティー)達が釈迦に対して出家したいとの申し出に対し、認めようとしなかった釈迦を説得して尼僧((比丘尼)が出来たことは彼の偉大なる業績です。

当時女性の出家者というものが存在しなかったのは、集団の中に女性が加わることによって恋愛の感情が生じたり、修行に集中できないなどの問題や、社会的に女性の身分が低かったことなどの理由によるものですが、阿難は男女に関係なく一人でも多くの衆生が救済されることが真実の教えにとって必要なことであるとの思いを釈迦に伝えたのです。

多聞第一

多聞第一

釈迦の入滅後しばらく経ってから釈迦の説いた教えを確認し合う集まりである第一回結集には釈迦の教えをよく聞いていたということで阿難の参加が望まれていましたが、阿難は結集に参加する資格としての阿羅漢果(あらかんか)にまだ達していなかったために、釈迦の後継者の摩訶迦葉(まかかしょう)は阿難の参加を認めませんでした。

釈迦の説いた教えを正確に記録するためにはある程度のレベルに達している人でないといけないという判断があったからです。

そのため阿難は摩訶迦葉のすすめで瞑想修行に専念し、疲れのために寝具に倒れ込んだ拍子に悟りを得たのが第一回結集の朝だったと言われています。

如是我聞

第一回結集のイラスト

王舎城・七葉窟にて行われた第1回の仏典結集に晴れて参加した阿難は、記憶に基づいて釈迦の教えを口述したことを基に仏典が編纂されたそうです。

如是我聞は「にょぜがもん」「じょしがぶん」などと読まれますが、仏典の最初の部分に必ずと言っていいほど登場する言葉です。

「我は仏陀からこのように聞いた」という意味なのですが、「我」のほとんどが「阿難」であるとされます。