毘沙門天-力の神

毘沙門天は元々天部にあって、仏法に対する外敵から守護することが役目で、

戦いの神として信仰されることがあります。

勝負必勝

古くは唐の玄宗皇帝のころ安西城が敵軍に包囲された際、

城の楼門に兜跋毘沙門天が出現して敵を追い払ったという伝説があります。

兜跋毘沙門天

我が国では毘沙門天を信仰した人として有名な武将に上杉謙信がいます。

上杉謙信

武田信玄と戦った川中島の戦いは有名ですが、幼少時より信仰心がとても強く、

春日山城中に毘沙門堂を建立して日々熱心に読経していました。

14歳 で初陣を飾り、それから48歳までの間に70回程の戦いをし、

負けたのはたった2回という驚異的な強さの戦国武将です。

毘沙門天-旗

自らを毘沙門天の生まれ変わりであると信じ、本陣の旗印にも「毘」を入れるほどの

熱烈な毘沙門天信者でした。

相手を滅ぼすことではない

勝負必勝と言えばずいぶんと勇ましく、

相手を打ち負かして頂点に立つような感じがしますが、

真の勝負必勝とは相手を滅ぼすことでも、頂点に立つことでもありません。

毘沙門天は勝負の神だと言っても、仏法を守護する神である限り、

例えば人を殺傷したり、盗んだり騙したりすることを手助けする神ではないからです。

仏法では在家や出家の人が守るべき戒律というものがありますが、

例えば在家の人が守るべき五戒を見ても、

  • 不殺生戒 ふせっしょうかい- 生き物を故意に殺してはならない
  • 不偸盗戒 ふちゅうとうかい- 他人のものを故意に盗んではいけない
  • 不邪婬戒 ふじゃいんかい- 不道徳な性行為を行ってはならない
  • 不妄語戒 ふもうごかい- 嘘をついてはいけない
  • 不飲酒戒 ふおんじゅかい- 酒などを飲んではいけない

この中でも人を殺傷することは仏法では最も重たい罪になります。

たとえ正義のための戦いであっても、相手を殺傷することはいけません。

しかし戦わないといけない時がある

とは言ってもいろんな時代のいろんな世の中で、

時として戦わなければいけないという状況に遭遇することもあり、

きれいごとばかりを言っていては、生きていけないということになります。

平安時代以降の寺院は僧兵と言って、武装した僧侶集団は大きな勢力となり、

寺院同士の勢力争いや、朝廷や摂関家に対して強訴を繰り返したことは有名です。

寺院であれ、国家であれ、勢力争いというものはどうしてもあるもので、

戒律を守らなければいけない聖職にある者が自ら武器を取って戦争に行くのですから、

このような状況ではなかなか平和な世の中は実現しないということになります。

何か物事を頼もうという時には、病気の時に病院に行くのと同じで、

頼みごとに応じた専門の神がいる訳であり、

どの神様に頼むかという、謂わばご縁みたいもので、その人の運命が決まってしまいます。

神仏から霊界まで目に見えない存在は上から下まで星の数ほどいて、

中には人に対する悪さを最上の喜びとする神もおり、

そういう神とお付き合いしますと、最後は必ず自分も悲惨な終わり方をしてしまいます。

くれぐれも悪い神様にはひっかからないように気を付けなければいけません。

しかし、如何なる時代であれ、何かに戦わなければいけないという状況があるのは

今も昔もおなじこと、神々に祈願するにしても、高いレベルの神なら、

真の必勝法を知っているのです。

戦乱の世の中であれ、毘沙門天が勝負の神として崇拝されるのは、

それなりの訳があるのです。

相手の事を思うこと

例えば国盗りの戦乱の世の中では、一部の権力者が自らの領土を拡大するために

多くの民衆を使って戦い続けます。

戦うということは、相手を殺傷したり、人の物を略奪したり破壊したり放火したりと

悪の限りを尽くすということで、そうしなければ自分がされるという、

自分がやられないための妙な正義感と、

そしてもう一つは自分の家族の誰かがやられてしまったことに対する

敵討ち(または仇討ち)で亡き人の怨念を晴らすという

これまた変な正義感に満ち溢れていますので、

こういった正義感で世の中が満ち溢れていますと、

結局何が本当の正義なのかよくわからないということになってしまいます。

土地を広げ、権力を広げるということは仏法では煩悩と言って、

低レベルの欲の固まりであり、悟りに少しでも近づこうと思ったら

捨てなければならないエゴなんですが、

権力の中に組み込まれた者達は、皆が変な正義感に満ち溢れていて、

結局この正義感というものは、自己中心的な煩悩、エゴの固まりで

自分の事しか考えられなくなり、

相手のことを考えるという余裕が全く無くなってしまうのです。

毘沙門天は自分の事しか考えないような人の味方はいたしません、

相手のことを考えるということが大切なことです。

相手のことを思うとは、相手の幸せを願うということです。

先ほど登場した上杉謙信の勝利の秘訣は案外こういう所にあるのかもしれません、

上杉謙信の戦いのほとんどは他者に助けを求められ てのことで、

他の戦国武将のように領土拡大を目指して侵略するものではありませんで した。

稀に見る高潔な人物だという事が分かりますが、

上杉謙信の人柄は、「敵に塩を送る」という諺でも残っているように、

敵将武田信玄の 領国の甲斐が塩の不足に苦しんでいるのを知り、

塩を送らせた故事から、敵の弱み につけこまず、

逆にその苦境から救うことを日頃から実践していたことからも、

常に自分の事よりも、困っている人々の救済をしていたことが

毘沙門天の教えに適っていたのです。

負けないこと

勝負とは、必ずしも勝つことばかりが最終目標ではありません、

オリンピックでしたら1位が金メダル、2位が銀メダル、3位が銅メダルですが、

2位や3位だから負けということではありません、

一時期は蓮舫さんの「2番ではダメなんですか」という言葉が流行りましたが、

予選で敗退したした人にとっては、

或いはオリンピックに出られなかった人にとっては、2位や3位でも夢のまた夢、

羨ましい限りなんです。

しかし、絶対に1位を取ろうと思っていた人にとっては、2位という結果は負けたも同然、

結局のところ、勝った負けたは、自分の心との闘いであって、

例え思うような結果が出なかったとしても、

次は必ず勝つという心を持ち続けることが負けないということなのです。

勝負事は大抵、自分の心との闘いなんですが、

困った人を救済するような場合においても、必ず敵も現れれば邪魔もされます。

敵とは、困った人を更に苦しめようとする人や神のことで、

困った人を更に苦しめるような人は世の中たくさんいるのですが、

そんな神様がいるのだろうかとは思いますが、

実は貧乏神や疫病神など、困った神様も存在するのです。

また、自分自身の心の中で、そんなことして何の得になるの?

といった自問自答の闘いもまた存在するのです。

毘沙門天の力を得るには

毘沙門天の力を得るためには、毘沙門天の真言「オンベイシラ マンダヤ ソワカ」

を唱えます、1回でも3回、7回、21回でも可、108回ならもっと良し。

出来れば毎日唱えてください、最強の力であることが分かります。

真言(マントラ)は波長であり、リズムです、何回も唱えていると

繋がって、ぐるぐると回り出します。