戦争とは

戦車のイラスト

戦争とは兵器や兵力を使った国同士の争いのことです。

平和ボケとは

平和ボケのイラスト

平和ボケとは周囲の状況が戦争になっていても危機感を感じることが無く、いつまでも平和な日常が続くと思い込んでいる人のこと。

戦争の無い平和な時代

自由のイラスト

我が国では第二次世界大戦後の70年間は戦争に巻き込まれることなく、実に平和な時代を過ごしてきました。

敗戦後は先人達の復興に掛ける思いと、たゆまぬ努力のお陰で経済は成長して国民は豊かになり、我が国は先進国の仲間入りを果たすことが出来たのです。

戦争の時代を経験した昭和の古老は法事の度に戦争の話を聞かせてくれて、如何に大変な時代だったのかをそれぞれの立場で熱弁し、もう戦争は二度と嫌だと口をそろえて説いていました。

そういった話を聞く度に戦争の恐ろしさを知ると共に、平和の大切さも学んでいたのです。

しかし戦後77年を経過した今では、そういった戦争経験者も存命の人が少なくなってしまい、戦争の実体験を身近に聞くような機会がほとんどありません。

特に本年は五黄の寅年で世界的な大変動が起こりうる年回りであり、周囲を見回しても略奪や戦争が勃発して私達の日常生活にも様々な影響を及ぼし、我が国の周囲でも軍事的な挑発行為を繰り返される度に対抗措置を求める声が高くなるのはもう、戦争に巻き込まれている証なのです。

喧嘩も戦争も「やられたらやり返す」「やられる前にやる」ということが正当な理論になってしまうのです。

戦争は作り出されるもの

戦争のイラスト

人それぞれに願望や欲望があって、人が集まれば国になって国としての欲望となり、周囲の国に対して優位になるように、そして強い力を持つようにとの民族としての欲望となった結果として周囲近隣を滅ぼしたり併合したりしてより大きくなろうとするのです。

釈迦の時代に於いても弱い国は強い国に滅ぼされてしまうことから、国王は国の力を強くして外敵から国を守ることが大きな使命でありましたが、小さな国では何時大きな国に滅ぼされるかという不安を抱きながらの日々を過ごす訳で、釈迦は王子としての身でありながらも、このような世の中では絶対的に安楽の境地は得られないことを強く感じていたのです。

他人が持っている物が欲しければ、交渉する、何かと交換するなどの方法が考えられますが、手放す気持ちが無い場合には、盗むということが最も手っ取り早いで、手段を選ばないとすれば相手を殺してから奪うことは犯罪ですが、戦争と言う事態になれば勝者が悪事を働いても罪に問われるようなことはありません。

悪事を働いても罪を問われることなく、欲しい物を得ることが出来、勝ちさえすれば英雄にすら成れるのですから、戦争と言うものは何時の時代も人の心の中から作られるものなのです。

諸行無常

祇園精舎の鐘

諸行無常は釈迦の悟りの中でも重要な部分ですが、「この世には永遠に続くものは何も無い」ということであり、何一つとして永遠に続くことはなく、平和に過ごしてきた時代も何時かは終わることを認識する必要があります。

もちろん戦争も永遠に続くものではありませんが、人間に欲望がある限り繰り返すのです。

今は有事に突入していることを覚り、大変な時代であるという覚悟を持ちましょう。

このような時代になってしまいましたが、それでも戦争というものは一人一人の心の中から作り出された現象ですから、せめて自分だけでも穏やかな心であるようにすることです。

そして周囲のゴタゴタに振り回されないことです。

嫌なニュースや恐ろしいニュースが流れますと、自分の心が乱されて不安な気持ちになってしまいます。

嫌なニュースや恐ろしいニュースが流れ続けますと人々の心は完全にかき乱されて正しい判断すら出来なくなってしまうのです。

平和ボケから目を覚ませ

平和ボケのイラスト

平和な時代はあっという間に過ぎてしまいます。

あっという間に過ぎ去った時間を振り返ってみたら案外平和な時代だったというのが正解かもしれません。

しかしあまりにも平和過ぎて外を見ることを忘れていませんか?

平和であることが当たり前だと思っていませんか?

戦争なんて関係ないと思っていませんか?

平和ボケというのはこういったことに気が付かなくなってしまった状態のことです。

世の中を正しく観ることが大切です。

正しく観れば自分が何をするべきかが分ってくるはずです。

人の世界では平和が続けばそれを楽しむだけでボケてしまい、平和の有難さが分からなくなってしまいます。

天の世界では毎日が平和で安楽の世界ですが、自らの平和と安楽を楽しむあまりボケてしまうのではなくて、他の平和と安楽を楽しむからボケることが無いのです。

仏教では戦争になったからといって武器を持って戦うということはしません。

人を傷付け、血を流す武器を多く持つことで平和が訪れる訳ではありません。

武器を持った神様はたくさん居られますが、どの神もそれらの武器を相手を傷つけるために使うのではなくて、正しい法に導くための道具として使っているのです。

毘沙門天は鎧兜を着ていますが、外敵から身を守るためです。

守るということは大切なことです、たとえ世の中の状況が如何なることになっても、家庭の中だけは平和であるように、そして心穏やかで居ることが出来る場所にしておくことです。