今こそ世界平和
平成の時代は戦争の無い平和な時代でしたが、令和になって私達の身の回りに戦争の足音が聞こえるようになってきました。
「平」とは
「平」とは水面に水草が生えている状態のことで、水面が穏やかな様子のことを言います。
水面は風が吹けば波が立ちますし、嵐の時には荒れ狂うのですが、風の無い穏やかな時には鏡のように静まりかえります。
極楽浄土では花が咲き乱れ、蝶が舞い、天女が飛び交う宮殿にある池には水連が咲き、波風経たぬ実に穏やかな憩いの場になっています。
「平」には他に、優劣を付けないという意味があり、平らであるということは、優れた人や劣った人のような優劣のデコボコが無い状態で、誰でも価値ある人だということであり、優劣が無いから当然争いが無いのです。
「和」とは
「和」とは言葉を重ねるという意味の「加」が語源であり、言葉を合わせてやわらぐことです。
人と人とが対立することなく皆が言葉を合わせて仲の良い状態が「和」なのです。
「平」が周りの環境的な状態を表すのに対して「和」は人の状態を表しています。
人は一人では決して生きていけない生き物であり、集団で互いに助け合いながら生きていくことで繁栄してきましたが、人が集団で上手く生きていくための秘訣は、和の精神であり決して争わないことなのです。
平和とは
平和とは穏やかで世の中が安穏であり戦争の無い事です。
平和は特別な状態ではなくて、争いが無いというだけのことですが、争いの火種は世界中にあって、実は平和でない国の方が多いのですが、我が国の歴史から見ても、私達が生きている間に戦争に巻き込まれずに安穏に過ごすことが出来たという時代はほとんど無かったのです。
平和は天の世界や浄土の世界がこの世に投影された状態であるとも言えて、戦争は地獄、餓鬼、阿修羅の世界がこの世に投影された状態であるとも言えるのです。
世の中が平和であれば人の心は穏やかになります。
世の中が平和であれば住んでいる場所さえも美しくなります。
欲望と平和
私の子供の頃は家族でご飯を食べる時に父親が「お米はお百姓さんが八十八の手間を掛けて作ってくれたから、八十八と書いて米と言うんだ、それだけの手間が掛かっているのだから、感謝して頂き、決して残してはいけない」と言われたものです。
私の父親の世代はお弁当を食べる時にはまず、蓋に付いたご飯粒から食べるという世代でしたので、それを見ていた私も同じようにしますし、出された物は決して残しはいけないという意識があるのですが、最近の若い人がどんどん残して遠慮なく捨てているのを見ていますと、実に贅沢な世代だなと感じます。
お米が私達の食宅に出るまでの間には多くの方の努力と御縁の賜物であり、作った人は食べる人の幸せを思い、そして食べる人は作った人に感謝するという、相手を思う精神があれば平和な社会が構築されます。
しかし利益中心の経済社会では世界中から集められたいろんな物が世の中に溢れ、作る側は売れさえすれば何でも良いという考えに走り、消費する側としてもスマホで注文すれば何でも自宅に届くので、必要の無い物まで大量に買い込むということになり、結果としては世の中の経済が回っていて皆が豊かになっているのですが、作った人も買った人もお互いに何の感謝も無い御縁でつながっているのです。
こういった感謝の気持ちの無い豊かさは、欲望に満ちたつながりとして更に大きな欲望を生み出し、究極の欲望はお金と名誉を得ることで、お金と名誉を得た者は多くの人が自分を敬い、自分に従うことに酔いしれるようになるのです。
人と人との関係は、対等の関係であればお互いに平等で気持ちの良い関係が築けますが、それでは満足できないと、力づくで自分に従わせようとすれば暴力になってしまいます。
相手を自分に従わせるということは最高に刺激的な欲望なのですが、国としては相手の国を自分達に従わせることとなり、それを力で行うのが戦争なのです。
国と国との戦争であっても一人一人の欲望から始まっているのです。
私達が為すべき事
平和な社会であるために私達は何をしたら良いのでしょうか。
不慳貪(ふけんどん)
不慳貪とは物惜しみをしない、貪らないことで、身(体の行い)、口(口で発する言葉)、意(心で思う事)の規律である仏教の十善戒の中で、意業(心で思う事)に関する規律の一つです。
「慳貪」とは「慳」が物惜しみをすること「貪」が貪ることです。
私達は人に施すということを忘れてしまい、まだ欲しい、もっと欲しいと奔走し、挙句の果ては人の物まで取ってしまうようなことをしてしまっているのです。
食べきれない程の食べ物を買ってきて、賞味期限が切れたからと捨てていませんか?
テーブル一杯に食べ物を載せて食べきれなかったからと残しませんでしたか?
世の中には貧困で苦しんでいる人がたくさん居るのに、そういう人達に施しもせず、自分達だけは満ち足りて余った物を捨てるという心が争いに繋がっているのです。
限られた資源だとすれば、不足して空腹で苦しい生活をする者は、常に満腹で施すことなく、余ったらゴミ箱に捨て去るような者に対して、恨みの感情を持つのです。
私達の生活で仏教的に今すぐに変えていくべきは小欲知足の実践であり、少ない欲で足るということを知るべきです。
大きな欲望で満足しても、また次なる大きな欲望が湧いてくるだけですから、欲望の闇は深くなるだけのことですから、小さな欲望で完全に満足する心が必要なのです。
世界的な戦争は既に始まっています、物の値段も上がって入りにくくなり、生活は苦しくなりますが、物を大切にし、無駄な物を買うことなく、自分で物を作ることが出来るようにしましょう。
エネルギーも要注意、節約を心掛けて無駄遣いせず、少ない量で生活を楽しむことが出来るように工夫しましょう。
不瞋恚 (ふしんに)
不瞋恚 (ふしんに)とは怒らないことで、メラメラと燃える怒りの心は静かな心を乱して正しい判断力を失くしてしまい、更なる相手の怒りを買い、争いや戦争になってしまいます。
「瞋恚」とは「瞋」が怒り「恚」が恨むことです。
「瞋」も「恚」も心の作用で、怒りの心は恨みになり、恨めば恨むほど怒りの炎はメラメラと燃え盛ります。
自分にとって不都合なことを相手からされた時には誰もが怒りの心になるはずです。
最近よくある相談の例としては
- 自宅の駐車場の前に隣の人が車を勝手に停める
- 隣人が物を投げ入れたりの嫌がらせをする
- 隣の物音がうるさい
実際にされた方の立場としては我慢できないもので、心の中は怒りに支配され、相手を黙らせたい、謝らせたいという正義感のあまり、裁判沙汰にしてしまうと、結局は和解するどころか余計にこじれるという結果になるものです。
怒りの心は「相手を絶対に許さない」という攻撃的な心になるもので、こういった心が戦争につながっているのです。
「悪い奴は絶対に許さない、成敗してやる」というのが武士道であり、時代劇ではよくあるパターンで、最後に悪い奴が成敗されると実にスカッとするものですが、悪は自分で成敗しなくとも天が成敗するというのが仏教の基本であり、更には自分が為したことは自ら清算するようになっているのが大宇宙の変わらぬ法則なのです。
怒りの心が湧いて来た時には、それに執着してはいけません、「気にしないこと」が大切で、もっと言えば忘れてしまうことなのです。
「良いことだけ覚えておいて、悪いことは忘れる」ことは悟りでもあるのです。
釈迦は成道の前の瞑想中に魑魅魍魎(ちみもうりょう)や鬼神などが成道を邪魔するためにいろんな手段方法を使って襲い掛かってきたそうですが、釈迦はそういったものの正体が幻であることを知っていたので、全く気にする事なく瞑想を続けた結果として悟りを得られたのです。
如来になるための悟りは難解なものですが、仏教の悟りの智慧は私達の生活をも豊かにしてくれるのです。
祈ってみよう
仏教では「教え」と「修行」を大切にしますが、ただ単に「祈る」ことや「信じる」ことは意外と大切なもので、たとえば子供が病気になって苦しんでいる時に親としては一心に「祈る」ということが一番の良薬だったりするのです。
この御札は特別に作ってみましたが、毘沙門天の世界を駆け巡って平和を守護する大きな力と、家庭を守る力を皆様に受けて頂きたいという願いが込められています。
一人の単位で世界平和を願ってもどうにもならないと諦めてはいけません。
世界の平和は一人の願いから始まっているのです。
一人一人が怒りの心を持てば、その国は地獄と化します。
一人一人の心が平和を願えば、その国は平和の形に変化していくのです。
選挙で一人の一票などあっても無くても変わらないと皆が思えば何も変わりませんが、実際は一人の一票が積み重なって何万と言う得票になっているのですから、参加しないと始まらないのです。
祈りの力は宗教の原動力であり、多くの人が平和を祈れば必ず平和の形が出来てくるのです。
この御札は明日のお焚き上げ供養に参加された方とお手伝いの方に差し上げるつもりです。
好評でしたら祈願の御札のコーナーに追加いたします。