怒りとは

怒りの心

私達の日常生活の中ではイラつく、ムカつく、頭にくる、なんていうことは日常茶飯事、怒りの感情は常にこみあげてくるものですが、これはほとんどの場合相手に対する感情の表現であり、相手の態度が気に入らない、思い通りにしてくれないなどの結果として怒りが爆発するのです。

怒りは煩悩です

怒りの感情は仏教的には煩悩であり、消しても消しても次々と湧いてくるものです。

  • 相手が気に入らないことをした
  • 悪口を言われた
  • 暴力を振るわれた
  • 嘘をつかれた
  • 騙された
  • 自分を低く見られた
  • 物を盗られた、壊された

など私達の身の回りには怒りの材料はいくらでもあるもので、職場に居ても上司の態度が気に入らない、学校に居ても友達からいじめられるなど、私達の常にストレスになるように怒りの感情を持ち合わせているのです。

不瞋恚について

不瞋恚とは腹を立ててはいけない、自分を見失ってはいけないということで、身(体の行い)、口(口で発する言葉)、意(心で思う事)の規律である仏教の十善戒の中で、意業(心で思う事)に関する規律の一つです。

仏教では心を静めて正しく物を観ることを説きますが、怒りや恨みは心の灯が燃え盛って冷静さがなくなり、自分を見失ってしまうことで、正しい判断が出来なくなるのです。

そういう意味では怒りは心の中がメラメラと燃え盛った状態であり、怒りは火に喩えられますが、周りを焦がしてしまい、何もかも焼き尽くしてしまいます。

心を冷静にして鎮めることは正しく真実を観るために必要なことなのです。

怒りはエネルギー

怒りは本来消し去るべきものですが、人間界には向上心を持つための大切なエネルギーであったりします。

例えば勝負の世界でも負けた者にとっては、負けて悔しいからこそ、勝って喜ぶ相手に怒りがこみ上げてきて、今度こそ負けるもんかという向上心につながるのです。

受験で落ちるようなことがあったにしても、本当に悔しいからこそ、もし受かっていればと思うからこそ、もう一度挑戦してみるのです。

私達の世界では確かに向上心は必要ですが、私達の上の世界である天界では、毘沙門天は怒りの煩悩の象徴である邪鬼を踏むことによって怒りを抑え、その怒りのエネルギーを悟りのエネルギーに変えることを説いているのです。

暴力で相手は変わらない

気に入らない相手を変えさせようと思っても無駄なことです。

人の気持ちを無理やり変えようと思っても、絶対に変わりません。

ましてや怒りの気持ちに任せて暴力で相手を変えようと思っても無駄なことです。

暴力はますます相手の気持ちを引き離してしまいます。

相手を変えようと思ったらまずは自分が変わることで、自分が変わってしまえば相対的に相手が変わったことになるのです。

気にしない事

怒りというものは気にすれば気にするほど大きくなる性質を持っていますが、気にしなければ自然と収まります。

何故なら怒りは最初から心の作用だからです。

心から生じたものであれば、気にしない事、これが一番の方法なのです。