父母の恩とは

父母の恩

弘法大師空海の著書によく出てくる四恩とは父母の恩・衆生の御・国王の御・三宝の恩のことで、この中で最も私達に身近な存在は父母の恩です。

御縁について

出会いと言う御縁は偶然の産物として生まれるもので、たとえばあの時急に雨が降り出したからとか、電車に乗り遅れたからなどの単純な理由によって何かが変わり、本来であれば出会うことの無かった者同士が結ばれたりするのです。

そのような偶然ではなくても運命の糸で結ばれていたようなという御縁もあり、御縁と言うものはいずれにせよ実に不思議な糸で人と人とを結んでいるのです。

その運命の糸が偶然か必然かは分からなくとも、与えられたものであることは間違いなく、御縁の糸を偶然の産物だと言えばそれまでですが、神様が準備してくれたと思えば実に有難いものです。

今私達が居るのは父母と言う御縁があったからであり、父と母が出会うことが無かったら当然存在することが無かったのです。

父母について

私達には必ず父母が居て、亡くなっていても心の中に存在している、それが父母なのです。

親が子に対して愛情を持って育てることは、我が子で可愛いということもありますが、無償の愛を学ぶためでもあります。

夫婦と言うご縁を頂いて更に子と言うご縁を頂き、家庭を持つ中で仏性としての無償の愛を体得するチャンスを与えて頂いているのです。

親が子を思う気持ちは何処の家庭も同じと言われますが、たとえ自分達が空腹でも子供にだけは満足に食べさせてあげたいと思うのが世の常であり、親心(おやごごろ)と言われるのです。

そして親から受けた恩は自らの子に返すということを家族と言う仕組みの中で延々と受け継がれてきたのです。

しかしながら必ずしも世の中全てが理想通りになる訳ではなくて、親が不仲で離婚、子供を虐待するなどの悲惨な状況もまた多いのです。

孝行したい時には親は無し

昔から「孝行したい時に親は無し」と言われますが、人生の難関を乗り越えて経済的にも安定し、少しだけ余裕が出てきた頃に親孝行がやっと出来ると思ったら、いつの間にか親は居なくなっていたということなのです。

人として生まれてくること

ありがとう

涅槃経(ねはんきょう)という経典には「盲亀浮木」(もうきふぼく)という話があります。

「ありがとう」は仏教用語である

大海にくびき(穴の開いた木)が浮かんでいて、風の吹くまま、潮に流されるまま漂っていて、100年に一度息をするために浮かび上がる盲目の亀がいると、その盲目の亀もまた大海を彷徨っていて、100年に一度だけ浮かび上がるのですが、

果たして浮かび上がった時にくびきの中に頭が入るかという問いがあります。

盲目の亀ですから、穴の中を狙うことも出来ませんし、今どこにいるのかも分かりません。

これは確率的に無理だと思うのですが、このとんでもない確率と同じ確率で今私達は人間の姿をしてここにいるのだと。

私達が人間の世界に生まれてくることはそれほど奇跡的なことなのです。

しかも今の時代ではなくて、旧石器時代などに生まれたとしたら、大きな動物に襲われる危険や毒虫などに刺される危険の中で、毎日食べる物を探してばかりで30歳ぐらいにはもう死んでいたのですから、仏法に巡り合うこともなく、修行をするようなことも無かったことでしょう。

仏法に巡り合えた恩

親に対しては生んで育ててくれたという恩の他に、人として生んでくれて仏法に巡り合う御縁を作ってくれたと思えば感謝しかありません。

仏法は人として幸せに生きる方法と、真の意味での幸せの方法を説いていて、私達にはその方法を実践するチャンスが与えられているのですから、そのきっかけを作ってくれただけでも有難いことなのです。

親に愛情を一切受けていない、虐待されていたなどで辛い過去をお持ちの方もたくさん居られますが、幼少期からの環境で形成された人格は変わることなく、自分が大きくなってからも子供に親がしたことと同じようなことを繰り返してしまうものなのです。

たとえ親から愛情を受けていなくとも、親を恨んではいけません。

どんなに憎くても命の恩人であり、恨みの気持ちは延々と引き継がれるだけなのです。

仏の心になろう

近年では親の遺骨を捨てたり処分したりする考えが見受けられますが、親の遺骨を捨てれば自分の遺骨も捨てられます。

親から受けた恩は子に孫に、そして老いた親に御返しするのがまた無償の愛、亡き父母に対しての愛は供養と言う形で表現されているのです。

親から恩を受けていないから誰にも返す必要が無いと思えば人としておしまいです、本当の無償の愛とは、受けたから返すというものでは無いのです。

無償の愛は仏の心であり、本来の私達の心の中にあるものです。生きるという事は即ち修行です。