空海

弘法大師空海は真言宗の開祖です、今では弘法大師として民衆の救済のために高野山奥の院で座禅を続けていると信仰されており、世界遺産となった高野山奥の院には世界中から多くの人々が訪れています。

弘法大師空海とは

空海は774年、讃岐国多度郡屏風ヶ浦(現在の善通寺市)に佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)と玉寄姫(たまよりひめ)の三男として生まれました。

幼名を真魚(まお)と呼ばれ、幼少時より聡明だった真魚は、母の兄である伊予親王の侍講を務める大学者、阿刀大足(あとのおおたり)から目を付けられて、齢15歳にして、788年には都である長岡京に呼び寄せられて、学問の道に進みました。

沙門との出会い

伯父の下で3年間学び、18歳にして今日の大学に入学。成績は常に優秀で、このまま進めば間違いなく当時のエリートである官吏になれるはずであった。

しかし幼少より宗教心に目覚め、真に人として生きる道を求めていた真魚にとって、大学での学問の習得、さらには用意されたエリートの道を歩むことに満足出来るはずはなかったのです。

そういう時に一人の沙門(官の資格を持たない修行僧)と出会い、「虚空蔵求聞持法」という行法を授かる。この行法はただひたすらに虚空蔵菩薩の真言「ノウボウ アキャシャ キャラバヤ オン アリキャ マリボリ ソワカ」を100万編唱え続けるという荒行で、途中で止めることを許されない、命がけの行だが、成満すれば虚空蔵菩薩の無限の智慧を授かると言われ、一度聞いたことを決して忘れない記憶力と、真理を見極める判断力が身に付くという行法なのです。

とある沙門と知り合ってから間もなくして、真魚は突然大学から消えたのでした。

明けの明星が飛び込む

大学を飛び出してからの正確な足跡は不明です、山岳修行の日々を過ごし、室戸岬の崖の上に座禅を組み、虚空蔵求聞持法を修行していた時に金星が真魚の口の中に飛び込んできたのです。

金星は虚空蔵菩薩の化身と言われ、この体験は虚空蔵求聞持法の最終段階になると言われています。

修行の日々

その後も修行の日々は続き、夢の中で「大和国高市郡の久米寺」に行くようお告げがあり、密教の真髄である「大日経」ど出会い、毎日読みふけるが、その奥義を習得するには唐に渡るしかないと確信するのです。

この時の真魚は30歳で、まだ正式な僧ではなくて、私度僧でしかなかったのです。

遣唐使

唐に渡るには正式な僧である官僧になることが必要で、31歳の4月に東大寺に行き正式に得度し、この時に僧名を「空海」と改め、その翌月には第16次遣唐使の第1船に乗り込み、難波津を出港したのです。

遣唐使と言っても国家的な使命を担った役割であり、ある程度の地位や実績のある者しか選定されないにも拘わらず、得度したばかりの空海が選出されたことは、何か大きな力が加わったのではないかと思われますが、やはり虚空蔵求聞持法を成就した不思議な力が働いたとしか思えないのです。

難波津を出発した遣唐船は嵐に会い、仲間の船の第3船と第4船は消え去ってしまうが、空海の乗る第1船は唐の最南端である赤岸鎮(せきがんちん)へと漂着するも、不審がられて、大使の藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)が上陸願いを出しても受け入れられず、困っていたところ、空海が代筆すると承認されたのです。

しかし赤岸鎮から都の長安までの約4000キロの道のりの旅を経て長安城明徳門をくぐった時には12月になっていたのでした。

唐での求法

唐では西明寺(さいみょうじ)、醴泉寺(れいせんじ)で梵語、バラモン哲学などを学び、道教、儒教、イスラム教、ゾロアスター教、マニ教をはじめ、書道、芸術などあらゆるものを吸収したのです。

密教の奥儀青龍寺

805年9月になると空海は密教の奥義を求めて青龍寺の門をくぐります。そこには病身の恵果(けいか)阿闍梨が待っていて、空海が来ることを悟っていたかのように、全ての法を授けることを伝えたのです。

恵果は大勢の弟子がいるにも関わらず法の伝承者に空海を指名したのは、一つの寺院が残ることよりも、法と言う宝物が遠くにまで伝わっていくことを望んだのです。

それからというもの、恵果は空海に胎蔵界灌頂、さらには金剛界灌頂を授け、阿闍梨の伝法灌頂を授け、最低でも10年はかかる密教の奥義をたったの3か月で伝授し、「遍照金剛」の位を授けたのです。さらには経典、法具、曼陀羅などを授けられ、密教の正式な伝承者となったのです。

全てを空海に伝授し終わった恵果は、この年の12月15日に入寂しました。まるで空海の来ることを待っていたかのような最後は、法の伝授の不思議なご縁というものを感じざるを得ません。

帰国を決意

入唐してまだ1年と少ししか経過していないが、目的を達成してしまった空海は、これ以上唐に留まる理由はないのですが、遣唐使の修学期間が20年と決められているので、勝手に帰国したりすれば、重い罪になることは間違いありません。

しかし、空海は帰国を決意し、この時に密教の道場の場所を祈願して投げた三鈷杵は高野山の三鈷の松として有名です。そして帰国の船では再び嵐に遭い、空海の祈りで出現したのが不動明王で、高野山の南院にお祀りされています。

帰国

806年10月に帰国した空海は、持ち帰ったものを整理して「御請来目録」を書き上げ、朝廷に提出したが、遣唐使の規約を破った犯罪者でもあるので、大宰府の観世音寺に留まりながら、諸国を修行する日々を送っていたのです。

その頃朝廷では薬子の変が勃発し嵯峨天皇と先帝との勢力争いで都が分裂の危機に陥っており、帝に呼ばれた空海は国難を鎮めるために高雄山寺に入寺して「仁王経法」を修することによって薬子の変は平定され、これを機に空海の評判は瞬く間に全国に広まりました。

高野山

816年より密教の道場を建立すべく旅に出た空海は旅の途中で高野山に導かれ、唐より投げた三鈷杵を見つけ、帝に高野山の下賜を願い、勅許を得たのです。

朝廷から讃岐国の満濃池の修復という難工事を頼まれた空海は高野山の建立、造営は弟子の実慧と泰範に任せて密厳浄土の建設をしながらも、満濃池の修復工事を短期間で済ませるという活躍ぶりで、もはや朝廷にとっとは、なくてはならない存在になっていたのです。

真言宗

823年1月には帝より東寺を下賜され、空海は教王護国寺と名付けて真言密教の根本道場とし、真言宗が確立した。同年の4月には嵯峨天皇は譲位して淳和天皇となった治世の翌年には全国的な大干ばつとなり、全国に死者が溢れ、国家的な問題となっていたため、東西両寺の高徳に請雨の修法を依頼するも効果は表れなかった。

そこで帝に請雨の修法を命じられた空海は、神泉苑にて「請雨経法」を修法するとその1週間後には全国的に雨が降り、大干ばつが解決したことで、空海の名は再び全国に広まったのです。

当時の国学や大学は貴族や豪族の子弟しか入学できなかったことを憂い、823年には庶民の教育のための学校「綜芸種智院」を創設し、誰でも入学出来て授業料が無料とし、密教の浄土である密厳浄土の普及に尽力したのです。

入定

空海の入定

その後も密厳浄土の実現に東奔西走し、830年には「秘密曼陀羅十住心論」と「秘蔵宝鑰」を著して翌年6月には弟子の真雅(しんが)に伝法灌頂を授けた後病に倒れる。832年8月にはまだ建設中の根本大塔にて万灯万華会を営み、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願ひも尽きなむ」という衆生済度の誓願を立てたのです。

その後ひたすらに瞑想の日々を送り835年3月には弟子たちを呼び集め、「天界(兜率天/とそつてん)にいき,弥勒菩薩の御前に侍(じ)し56億余年の後に慈尊(弥勒菩薩の敬称)のお供をしてこの世に生まれよう」と語ったと伝えられています。

自らは禅定を続けて後のことを弟子に任せると伝えた後、御歳62にて3月21日には高野山の住坊(現在の龍光院・中院)にて入定して即身成仏されました。

その後も奥の院で禅定を続けているとして、弘法大師信仰は現代に受け継がれています。

弘法大師空海に会える場所

今から1200年も前に入場された空海は今でも高野山奥の院の御廟で禅定を続けておられます。

知らないと損、弘法大師に会える秘密の場所

山上の宗教都市で別世界を体験できることから高野山観光は人気で、観光としての高野山巡りでも充分に満足できるのですが、弘法大師空海が開いた聖域なので、出来れば弘法大師に一番近い所までお参りしたいものです。

奥之院の御廟がどのようになっているかを知っていれば、弘法大師に最も近い所でお参り出来るのです。

奥之院

衣替え

空海入場の後90年あまりの時を経て、延喜9年(921)醍醐天皇の枕元に立ち、長らく高野の岩陰にて禅定を続けていましたが、衣が痛んでしまったので、新しい衣を頂戴したいとの夢を見た天皇はすぐに東寺(教王護国寺)の長者である観賢(かんげん)僧正を呼んで新しい衣を下賜され、更に「弘法大師」の大師号を下賜されました。

当時の高野山は東寺の管理下に置かれていましたので、東寺の長者である観賢僧正に委ねられたのです。

早速新しい衣を託された観賢は弟子の淳祐(じゅんゆう)と共に高野山奥の院の空海の御廟に入ったところ、「まるで大師(空海)が生きているかのような姿があった」との言葉を残しており、弘法大師が今でもそのような姿で禅定しているということの伝承に繋がっています。

弘法大師の伸びていた髪と髭を整えて、新しい衣に取り換えて供養が終わると弘法大師は観賢僧正らを無明橋までお見送りになられたそうです。

空海の髪を整える

普通に考えますとあり得ない話ですが、真言密教の即身成仏とはそういうことであり、釈迦にしても如来になって仏の世界に入り、神通自在の仏になっているのですから、仏というものは我々の常識を超えたところにあるのです。

この衣替えを始めとして「御衣替え」と呼ばれる儀式は今なお続けられていて、現在は旧暦の3月21日、弘法大師の旧正御影供に行われて、またその御衣は「御衣切れ」として小さく切り分けて参拝の方に授与されているのです。

奥之院燈籠堂

通常私達が奥の院でお参り出来る所は奥の院裏にあるお賽銭箱とロウソク立てがある弘法大師御廟前までで、それから先は柵があって御廟には近づけないようになっています。

奥之院の建物の周りの廻り廊下を廻って御廟を参拝する通路になっていますので、通路を通って建物中央から弘法大師御廟に向かって手を合わせます。

燈籠堂地下室

弘法大師御廟

真然大徳が最初に建立した燈籠堂には弘法大師に捧げるための燈籠が常に灯されていて、堂内には数多くの寄進された燈籠が所狭しと吊り下げられていて、薄暗い空間の中にも幻想的な雰囲気を醸し出しています。

燈籠堂

燈籠堂の中には千年近く燃え続けている二つの「消えずの火」があり、そのうちの一つは祈親上人が献じた「祈親燈」で、もう一つは白河上皇が献じた「白河燈」があります。

弘法大師に最も近い所でお参り出来るのが燈籠堂の地下室で、奥の院燈籠堂の順路を廻って右側に階段の入り口があります。

階段を降りるとたくさんの燈籠があり、奥に進みますと賽銭箱の所に大きな三鈷杵と数珠があり、自分の数珠をこの数珠に当てると弘法大師の力が頂けるそうです。

弘法大師の御影がある壁の向こうには弘法大師が今でも座禅を組んで瞑想しているのです。

この燈籠堂の地下の御廟前が弘法大師に最も近い場所なのです。

弘法大師のお姿に近づけるのは生身供(しょうじんぐ)を届ける維那(ゆいな)だけですが、中の様子は他言しない規則ですし、一切知らされていませんので詳細は分かりませんが、一説によりますと

  • 石棺に納められている
  • 石棺に納められた上に土が被せられている
  • 石棺には通気のための穴が開けられている
  • 入定された時の姿のまま
  • ミイラのようになっている
  • 実は火葬されていた

と諸説ありますが、決定的な文献が無いこと、弘法大師信仰が後世になって全国に広がったことなどの影響があり、四国八十八か所の巡礼でも「同行二人」のように、弘法大師が傍に居てくれる信仰もあり、八十八か所の最後の巡礼の場である高野山には弘法大師が居られるという考えが定着しているのです。

即身成仏

即身成仏とは生きた身のままで仏になることで、大宇宙の原理と同化することでもあり、曼荼羅の世界を実現する事でもあります。

即身成仏の理論は奈良時代の塔の高僧である不空金剛が著した「菩提心論」(ぼだいしんろん)に初めて登場したと言われます。

弘法大師空海は奥の院御廟で今でも座禅を続けていると言われていますが、「入定」(にゅうじょう)という言葉を使い、即身成仏したと言われています。

62歳という年齢までにあらゆることを成し遂げた弘法大師の業績はもはや一人の人では無くて大きな力に支えられていたのではないでしょうか。

大宇宙の真理に到達し、成仏の域に達したのですから、生身の身体は必要無いはずなのですが、大師信仰というものは、常に私達に身近な存在としてのお大師さんがいつも傍に居てくれる、いつも守ってくれるというとても庶民的な存在として捉えられていることが生身の身体をまとった弘法大師ではないでしょうか。

生身供(しょうじんぐ)

生身供

高野山では1200年間に亘って一度も欠かしたことの無い儀式が毎日続けられていて、弘法大師に1日2回のお食事の供えを届ける儀式の「生身供」(しょうじんぐ)です。

御廟橋手前の御供所で作られた料理を朝6時と10時半に弘法大師の元に届けられるのですが、その前に嘗試(あじみ)地蔵に味見をしてもらうそうです。

あじみ地蔵

味見の儀式が済みますと箱を2人の僧が担ぎ、先頭を維那(ゆいな)と呼ばれる仕待僧が歩き、御廟橋を渡って燈籠堂(とうろうどう)の中へお供えを届けて読経し、御供所に戻ります。

御廟の中に入って食事を届けることが出来るのは高僧の維那だけが許されていて、他の者はだれ一人は入れない決まりになっていて、維那の役を任命された者は御廟の中の様子を一切他言してはいけない規則です。

気になる食事の内容は朝食がご飯と味噌汁、野菜のおかずが2品とほうじ茶、お昼はおかずが1品増えて3品になりメロンなどのデザートが出て、午後になると抹茶や緑茶、コーヒーなどもあるそうです。

時にはスパゲティなどの洋食が出ることもあり、新年を迎えるお正月にはおせち料理が出されるそうです。

また弘法大師が入定された日には衣も届けられます。

このようにして弘法大師に毎日お食事を届けるという事が1200年も続いているという事自体がすごいことであり、弘法大師がそれだけの任務をこなしているということなのです。

弘法大師は奥の院に居ないかもしれない!?

何と言う衝撃的なタイトル、弘法大師に失礼じゃないかと叱られそうですが、学問的には弘法大師が奥の院に居るということは証明されないそうです。

弘法大師入定の時に奥之院は無かった

弘法大師の甥(姉の子)であり後継者と言われながらも弘法大師よりも早く遷化された智泉大徳(789-825)は、37歳の若さで入寂したですが、その墓所は壇上伽藍の中に有ります。

高野山第2世の真然大徳は弘法大師より50年後に遷化されましたが、その埋葬場所は現在の金剛峯寺にあり、昭和63年11月に真然の墓所である真然堂の解体修理時に埋葬当初のままの状態で出土した骨臓器の存在により、真然大徳は火葬されたことが分かりました。

弘法大師の時代には高野山はまだ原生林に覆われた状態であり、壇上伽藍の周辺のほとんどが原生林であり、奥の院は壇上伽藍からは4kmも東に位置していることから弘法大師の入定が奥の院であることは学説的には否定されています。

即身成仏の聖地としての奥の院

捏造された資料や不正確な資料がある中で、残された資料を基に正しいか正しくないかを検証するための学問は大切な役割を担っていますが、資料に残っていないから有り得ないとするのもどうかと思います。

霊場というものは思いや願いなどの目に見えない力を感じるためにあるのであって、奥の院には長い年月をかけた大きな力が集まっている場所になっているのです。

弘法大師の即身成仏は本来であれば肉体不要であり、ただ参拝する私達が、目の前に仏像があれば手を合わせやすいのと同じように、弘法大師がそこに居てくれたら有難いと勝手に思う一人一人の思いが重なって奥の院の霊場が成り立っているのです。

弘法大師は高野山開山当初に、堂々伽藍が完成したことのお祝いにと、四恩(父母・衆生・国王・三宝)に感謝する万燈万華会を行いました。その時の願文に「虚空尽き 涅槃尽き 衆生尽きなば 我が願いも尽きなむ」の文章が書かれています。

「宇宙が尽きるまで、悟りを求めるものが尽きるまで、生きとし生ける者が全て輪廻転生から解脱するまで私の願いは尽きることが無い」、この思いを持って即身成仏されたのですから、私達も救って頂かないといけません。

その救って頂くと言うご縁を頂くのに皆が集まるのが奥の院であって、そこが立派な聖地になっているのですから、弘法大師の思い皆の思いが積み重なって大きなものが出来ているのですから、それは立派な伝統なのであって、弘法大師が食事をしているという事がご飯を口から食べているということではなくて、供養を手向けているという真相を理解すれば良いのです。

大体、即身成仏されたような方はご飯を食べるような下品なことはしないのであって、ご飯を食べればトイレにも行きたくなって困りますので、供養と言うことを頂いて、さらには私達にも手向けてくださっているのです。

凄い数の伝説が残されている…全国に残る弘法大師伝説