不偸盗戒

不偸盗戒のイラスト

不偸盗戒とは人の物を盗んで自分の物にしてしまうことです。

仏教では在家の人が守るべき五戒の中で、不殺生戒の次に重要な戒になります。

人の物を盗るということ

お金を含めて物は私達が生活するのに必要であったり便利さや快適さを生み出しているのですから、ある意味私達は物を得るために働いているようなものです。

高価な物や欲しくても中々手に入らない物に対して、頑張って働いたり節約して貯金するような涙ぐましい努力があるからこそ自分の物になった時の喜びは大きいのです。

しかし目の前に欲しい物があったとしたら、盗んででも手に入れたいという悪魔の心が働くのは誰しも同じなのですが、ほとんどの人はそれを制止する善なる心が勝っているのです。

人の物を黙って持って行ったり、強引に盗ることで、盗られた人は困り、不幸になってしまいますし、自らは煩悩を増大させるだけで更に大きな盗みに繋がりますので、盗みはしてはいけません。

盗みにも小さな盗みから大きな盗みまでいろいろあって、個人的な盗みから窃盗団のような集団での盗み、果ては国家間の国盗りまで有史以来延々と続けられてきたのは、私達人間の本性ではないかとさえ思えるのです。

貪(むさぼ)りの心

貪りとは飽きることなく欲しがったり、何時までも同じことを続けることです。

私達の欲望は仏教では煩悩と言われて、欲しい、好きな事をしたいという気持ちであり、その欲望は満たせば満足しますが、しばらく時間が経てばまた次の欲望となって、しかも以前より大きな欲望となって襲い掛かってくるのです。

満足しても満足しても次々と出てくる欲望はいつまでも満足することなく、欲しい物があってもいざ買ってしまえば満足しますが、また次なる物が欲しくなってしまうのです。

朝起きるのが嫌でいつまでも寝ていたいというのも、仕事をするのが嫌でいつまでも遊んでいたいというのも貪りの心です。

貪りの心は私達を支配して何時までも満足できない心にしてしまい、ついには人の物を奪ったり盗ったりするスリルを味わうようになり、歪んだ欲望に支配されてしまいます。

妬(ねた)みの心

妬みとは他人の裕福さや幸せ、容姿などを羨ましく思い、それを憎むことです。

お金を持っている人を羨ましいと思うことは誰にでもあることですが、羨ましさのあまりお金持ちの人を憎むようになり、その人が不幸になればよいのにとか、お金を奪ってやりたいと思うのが妬みの心です。

他人の豪邸を奪ってやりたい、美人の奥さんを奪ってやりたいというのも妬みの心です。

そして奪われた人の悲しみを見て満足するのが究極の妬み心です。

今の時代によくある「ざまあみろ!」は、人気者が大きな失敗をしてどん底にまで落ちていくことを喜んでストレス解消する時に使う言葉です。

妬みの心に支配されますと他人の幸せが憎くて仕方なくなり、奪ってやろう、破壊してやろうという悪鬼になってしまいます。

盗みの結果として

人の物を盗んだことが事件として扱われ、捕まるようなことがあれば刑務所で罪の償いをしますが、刑期を終えて出所した時点で前科一犯が付き、この世の罪は償われたことになります。

しかし仏教的には為した行いは消えることがありませんので、自業自得の原則がありますので、いつかは償わなければならないのです。

盗みの罪の結果として死後に地獄に行くかもしれませんし、餓鬼道に堕ちるかもしれませんが、それは神のみぞ知ることです。

悪い行いが消えることが無い分、それ以上の善い行いを積むことは結果的に自分のためになります。

盗みは殺生の次に重たい罪ですので、気を付けるべきことです。

鼠小僧の盗みは正義?

鼠小僧は江戸時代に実在した人物で本名を治郎吉と言い、「鼠小僧治郎吉」として知られています。

寛永9年(1797)に元吉原(現在の日本橋人形町)に生まれた治郎吉は10歳前後で木具職人の家へ奉公に出され、16歳で親元に帰り鳶職人になるも親に感動されて賭博を始め、その資金稼ぎのために盗みを働くようになったとされます。

以後は賭博の資金欲しさに盗みを働くことを繰り返し、1回めの捕縛では入墨の上で追放されるも2回目の捕縛では市中引き回しの上で死刑の判決になりました。

本人の供述によれば十年間に荒らした屋敷は95箇所で839回、盗んだ金は三千両余りとのことですが、鼠小僧の犯行は中々捕まらなかったことで有名で、鼠小僧の引き回しの時には江戸中から見物人が押し寄せたそうです。

数多くの盗みを働いた鼠小僧ですが、捕縛された時の生活が質素だったことから、貧乏な民衆に汚職大名や悪徳商家から盗んだ金を分け与えたという話が拡がって美談とされ、後の歌舞伎、落語、小説などの題材として扱われるようになりました。

話の真偽はさて置いて、「貧乏な民衆に汚職大名や悪徳商家から盗んだ金を分け与える」ことは正義でしょうか。

悪いことをして得た人のお金を盗って貧しい物たちに分け与えるのですから、悪いことをした人への征伐にもなりますし、貧しい人達からは感謝されるのですから、善い行いのように感じます。

しかし仏教的に見れば誰から盗んでも盗みは盗みで、悪い行いになります。

貧しい人達に施すためという大義名分があったにしても盗みに変わりはありません。

貧しい民衆から取り立てたお金で贅沢な生活をしている人達は民衆の敵で、成敗して欲しいという民衆の願望がこのような話になったと思われますが、真の意味でのヒーローというものは、悪事を働くことなく民衆を救済しなければいけません。

盗みの種類

盗みにもいろんな種類があります。

物を盗る

他人の所有している物を盗ることで、次のようなこともいけません

  • 誰の物か分からない物を持って行くこと
  • 誰かが落とした物を自分の物にすること
  • 誰かが置き忘れた物を自分の物にすること
  • 貸してもらった物を返すのを忘れた
  • お金を貸してもらったが返せなくなった

人を盗る

不倫や拉致、強制労働、財産目当ての養子縁組、偽装結婚などはいけません。

時間を盗る

約束の時間に遅れる、約束の時間を忘れる、人を待たせるなどは大切な他人の時間を盗ることになります。

過去の盗みを悔い改めるには

仏教における蓮の花

過去に犯した自らの盗みの罪を悔い改める方法はあるのでしょうか。

懺悔すること

盗んだ相手が居るのであれば懺悔して謝ることが一番です。

盗んだ物と手土産を持って思い切って謝りに行きましょう、許してくれれば最高に有難い事ですし、もし仮に許してもらえなかったとしても、どうしようかと悶々としているよりはスッキリするものです。

謝ったという事をいつかは分かってくれるかもしれませんし、謝るという行為自体が尊いものなのです。

相手が亡き人になっていたら墓前にお詫びに行きましょう、これもまた尊い行いです。

功徳を積むこと

自分の為した悪業は決して消えることはありませんが、その分だけ善業を積めば必ず何とかなります。

善なる行いは自分のためにも亡き人の供養のためにもなりますので、功徳を積むことが大切です。