五戒とは

五戒とは

五戒とは仏教を実践する人が守る戒律の中でも、仏門に入った在家の人が性別を問わず守るべき五つの道徳のことです。

戒律を守る者に与えられる仏弟子としての名前が戒名で、法名とも言います。

五戒の構成

五戒は五つの戒から成り立ち、最も重要度の高い順から並びます。

  • 不殺生戒(ふせっしょうかい)…生き物を故意に殺してはならない
  • 不偸盗戒(ふちゅうとうかい)…他人のものを盗んではいけない
  • 不邪婬戒(ふじゃいんかい)…不道徳な性行為を行ってはならない
  • 不妄語戒(ふもうごかい)…嘘をついてはいけない
  • 不飲酒戒(ふおんじゅかい)…酒類を飲んではならない

不殺生戒

地球上の生き物は全てが弱肉強食の原則の元にあり、強者が弱者を喰らうことで成り立っていて、その弱肉強食の頂点に立つのが実は人間なのであって、自然の法則としては弱者を捕食することは正当な論理です。

しかし仏教では輪廻転生という法則からしてみれば、亡くなった身近な人が牛や豚に生まれ変わっているかもしれません。

生き物を殺す時には必ず苦しみが伴いますので、生きる権利を奪う事と、苦しみを与えることは出来るだけ避けなければいけないことなのです。

人間同士で言えば憎しみの感情や恨みの感情などが原因で相手を殺生することは重い罪であり、憎しみの感情や恨みの感情を爆発させること、そして相手に苦しみを与えて、生きる権利を奪ってしまうこと、更には家族の人を悲しませることなどの諸々の罪を伴います。

在家の人は殺人をしないことはもちろんですが、動物や虫に対しては無用の殺生をしないことが大切で、このことは他の生き物に対する慈しみの心に繋がっているのです。

仏の世界では皆が他を思いやり、生きる喜びに溢れている世界なのです。

不偸盗戒

盗むとは人が所有している物やお金を盗ることです。

煩悩と言われる欲望の中でも所有欲は私達人間を進化させ、現代文明を築いてきた源であり、ある意味欲があるからこそ発展して便利な生活がある訳ですが、所有欲というものは喉の渇きと同じようなもので、水を飲んで喉の渇きが収まったにしてもまたすぐに喉が渇くことを繰り返すのです。

もっと良いものが欲しくなる、人と同じ物では満足できない、たくさん欲しい、人が持っている物が欲しい、などの欲望が次々と湧いてきます。

所有欲の究極は人が持っている物やお金を盗むことで、何でも自分の物にしたいという欲望は行きつく所世界制覇であり、全世界を自分の物にしたくなるのです。

領土問題も然り、盗むことは重大な罪ですが、更には戦争に繋がったりして新たな罪を作ります。

盗むことに関しては物だけではありません、約束した時間を忘れた、遅れたということでも相手の貴重な時間を盗んだことになるのです。

人を盗むことについても奴隷、拉致などはもちろんのこと、不倫も同じことです。

仏教の基本は欲望を捨て去ることで、欲望にしがみついたままでは悟りの世界は見えてきません。

不邪淫戒

私達人間の欲望の中でも三大欲望と言われる「食欲」「睡眠欲」「性欲」は私達が生まれながらに持っている欲望であり、この三つの欲望に関しては満たされても満たされても次々と湧いてくるという特徴を持っています。

私達は食べることをしなければやがて死にますし、寝ることをしなければやはり死にますが、性に関してはしなくても死ぬようなことはありませんが、これがあるからこそ私達人類が今まで滅びることが無かった訳ですし、家族があって子供がいて、人並みの幸せを感じることが出来るのです。

そういう意味ではこの三大欲望が無ければ私達は今ここに存在しなかったかもしれません。

在家の方に関して、不道徳な性行為を行ってはいけないということは、自分のパートナー以外の人と交わらないということで、不倫というものは時々週刊誌で芸能人が暴露されたりしますが、家庭を壊し、人の心を傷つけ、人生を台無しにしてしまうものです。

「今までこんな人に出会ったことが無かった」というのが不倫の始まりで、自分の未知の世界に関してはもっと知りたい、経験してみたいという欲望があるもので、これもまた尽きることのない欲望で、次々と新しい刺激が欲しくなるものです。

仏教では欲望を捨て去ることを説きますが、時に捨てきれない欲望もあるものですが、在家の方はお家の中で解決するようにして、結婚している人でもしていないでも、人を傷つけてしまうような方法は避けたいものです。

仏教では他に対する慈しみの心を説きます、出会ったことによって救われた、心が軽くなったと言われるような出会いは良いご縁と言えるのです。

不妄語戒

妄語とは嘘をつくことで、私の子供の頃には「嘘つきは泥棒の始まり」とよく言われたもので、嘘をつくことに罪悪感を感じていれば気を付けるようになりますが、何回も嘘をついて、それが当たり前になってくれば泥棒をしても平気になるという意味です。

たとえば子供が遊んでいる時に自分の不注意で壊した物があり、後になって親から問いただされても「自分は知らない」、「犬が壊した」などの言い訳をしますが、これは自分の過ちを認めたくない、叱られたくないという、自分を守るための本能がそうさせているのです。

当然のごとく「善なる心」と「悪の心」が自分の中で戦うのですが、悪魔の甘い囁きに負けてしまうのが人間の悲しい性なのです。

また「嘘も方便」とは「物事がスムーズに運ぶためには、嘘が必要なこともある」とか、「大きな善行を成し遂げるためなら、小さな嘘は許される」などのように使われますが、時には嘘が必要になることは確かにあります。

癌の告知がそうで、精神的に弱い人や落ち込んでしまうような人に対しては、家族の人と相談の上で正しい告知をしないことがあります。

生きる希望を持ってもらうことが最も重要なことであるならば、その人のために敢えて嘘をつくということです。

どんな場合であれ人の心の中には「善なる心」と「悪の心」が必ず存在して葛藤する訳ですから、悟りを得た釈迦であっても最後まで悪の軍団の攻撃を受けた訳ですから、いつでも冷静に自らの心の中を観察し、悪の心に支配されないようにすることが大切です。

不飲酒戒

「酒などの心を乱すものを飲んではいけません」、これを言われると仏教辞めますと言う在家の人がたくさん居そうで、仕事の後の一杯のために毎日がんばっているみたいなものだから無理ですという声が聞こえてきそうです。

医学的に見ても少量のアルコールは体に良いと言われていますし、僧侶の間でもお酒のことを「般若湯」(はんにゃとう)と言って、智慧を授かる飲み物だから、これはお酒ではないと言って飲み続けている人もたくさんいます。

殺生に比べたら一番最後の戒ですから、軽い罪になるとは思いますが、やはり意味あっての戒なのです。

お酒を飲めば正しい判断が出来なくなり、善悪の区別が分からなくなったり、人に迷惑を掛けたり、気持ちが高揚して喧嘩になったりといろんな悪事に繋がりやすいことが問題なのです。

少量だから、付き合いがあるから、ただ一つの楽しみだから、と人によってはいろんな言い訳がありますし、私見ですが、少なくともこの戒の意味を良く理解した上で楽しんで頂きたいと思います。

仏教では酒を飲んでいる暇があるのなら修行しなさい、というのが本当の意味であり、お酒を飲んで酔って気持ち良くなるのはわずかな時間であって、酔って気持ち良くなることを幸せと言うのなら、そのために多大なる労力を使うよりは、もっと大きな幸があることに気が付きなさいよ、と説いているのです。

戒を守ること

戒を守ることはむずかしいことですが、守るように努力すれば新たに次の目標が見えてきます。

仏の心

五戒の根源と言いますか裏側にあるのは仏の心です、殺生をしなければ他の生き物に優しくなります、盗みをしなければ他に施すようになります、邪淫しなければ誰に対しても優しくなります、嘘をつかなければ真理の法則が見えてきます、飲酒しなければ道を求める堅固な心が得られます。

これらのことが全て仏の心に繋がっているのです。

仏は利害関係で何かをすることは決してありません、裏切るようなこともありません、真の幸せを教えてくれます。

仏は戒を守ろうとするのではなくて、もう既に当たり前に守られている存在なのです。

修行とは

戒は守ろうとすればするほど難しいもので、在家であれば守れないことの方がむしろ多いのではないかと思いますが、守ろうとする努力と、守れなかった時の懺悔の気持ちが大切であり、その積み重ねこそ修行なのです。

私達が求める幸せは案外もろくて蜃気楼みたいなもので、少しだけ見えたにしてもすぐに壊れるか消滅してしまいますが、真の幸せとは決して崩れることの無い堅固なもので、何時の時代でもあり続けるものなのです。

私達はそういう幸せを最終目標にして進んで行く、そのための戒であって修行なのです。