不妄語戒とは

不妄語戒のイラスト

不妄語戒とは仏教で在家の人が守るべき五つの戒律の中で四番目の、嘘をついてはいけないという戒であり、嘘をつくことによって善悪の正しい判断が出来なくなりますので、真実の世界から遠ざかってはいけないと説きます。

嘘つきは泥棒の始まり

昔から「嘘つきは泥棒の始まり」とはよく言ったもので、人は誰でも小さな嘘をついてしまうもので、子供などは親から「お片付けをしなさい」と言われれば、してもないのに「もうやりました」と嘘をつき、物を壊した時でも「猫が壊した」などの嘘をつきますが、これは智慧が発達している証拠であり一概に悪いことではありませんので、無条件に叱るのではなくて「神様はちゃんと見ていますよ」のような上手な導き方が必要になってきます。

子供がつくような小さな嘘であっても、最初はバレないかという罪の意識があってドキドキするものですが、それがバレなかったら少し大きい嘘をついてみて、大丈夫だったらまた次の嘘をつく、というようにだんだんと大きい嘘に繋がってくるのです。

「嘘つきは泥棒の始まり」とはたとえ小さな嘘でも平気でつけるようになってしまったら、人の物を盗っても平気でいられるようになる、ということで、嘘は悪事に繋がる第一歩であるということです。

記憶に御座いません

政治家の方が賄賂を受け取ったり不正を行っていても「記憶に御座いません」という弁護が連発されるのは今も昔も変わりませんが、本当に記憶が無いのではなくて、「記憶に御座いません」という無難な嘘をついて逃れようとしていることが多いのです。

嘘つきの人は、他人の物を盗っても「私は盗っていません」と言いますし、悪事を働いたとしても「私はしていません」と必ず言います。

このような事が世の中ではとても多くて、毎日のニュースの中で犯罪を犯して逮捕された人の嘘と思える弁解は

  • 知りません
  • やっていません
  • 私ではありません
  • 関係ありません
  • 覚えがありません

などで、犯罪には必ず嘘がセットになっているのです。

嘘も方便

嘘も方便とは「物事が順調に進むためには嘘が必要なこともある」とい意味で、物事を成し遂げるためには多少の嘘は許されるということです。

何もかもが正直で真実ばかりではこの世の物事は進まないということは、仏法の「不妄語戒」を否定することになってしまいます。

末期がんの人に対して病名を本人に宣告するかどうかは家族を交えて慎重に議論されることですが、病名を宣告されても希望を失くさずに残りの時間を生きていける人と、希望を失くしてしまって落ち込む人の二通りがあります。

希望を失くさない人は残りの時間を冷静に見つめて最後の仕事を成し遂げようとしますし、場合によっては生きる希望が治ることに繋がったりもするものです。

希望を失くしてしまう人に対しては「治りますよ」のような嘘を言う、或いは真実を知らせないことで気持ちが落ち込んでしまわないようにするのですが、この嘘によって少なくとも落ち込まずに希望を持てたり、治ることを信じて治療して本当に治ったとしたら、たとえ嘘であったとしても一人の人が助かったと言う意味では罪にならないという事です。

正確に言えば罪にはなるのかもしれないけれど、それ以上の功徳があるということです。

こういった場合には嘘も薬だと思えば良いのかもしれませんし、人を陥れるような嘘ではありませんので、罪としては軽いものではないでしょうか。

嘘をついてしまったら

仏教で戒で禁じられている嘘は私達が最も犯しやすい罪であり、カトリックでは「告解」と言いまして過去に犯した罪を障子越しの神父に告白し、神からの許しを請うという儀式があるのですが、仏教にも懺悔(さんげ)という悔い改める方法があり、自分の過ちを悔い改めることで二度と同じ過ちを犯さないことを誓います。

しかしながら仏教では自業自得と言いまして自分の犯した罪は自分で清算することが基本であり、来世に於いても大きな嘘は地獄に堕ちるとも言われ、やはり自分で罪の償いをしなければいけません。

嘘をついてしまったら、その過去はもう消すことが絶対に出来ませんので、まずは懺悔して、後は功徳を積むしか他に方法はありません。

仏門は過去に過ちがあったからこそくぐる門であり、過去の過ちを清算するために懺悔して修行をし、最終的に仏になることを目指すのです。

仏教と嘘

仏教には戒を破った時には僧の前で告白する懺悔(さんげ)という仕組みがあります。

懺悔とは

懺悔は「さんげ」と読むことでカトリックの懺悔(ざんげ)と区別しますが、教団の中で過ちを犯した時には一人もしくは四人の僧の前で自分の過ちを告白する制度があり、釈迦の時代の教団では釈迦に対して懺悔を行っていたそうです。

真言宗の勤行で唱える懺悔

真言宗のお勤めとして唱える勤行

高野山真言宗の勤行

の最初の中で般若心経の次に出てくるのが懺悔で、その内容は

我昔所造諸悪業 [がしゃくしょぞう しょあくごう]
皆由無始貪瞋痴 [かいゆむし とんじんち]
従身語意之所生 [じゅうしんごい ししょしょう]
一切我今皆懺悔 [いっさいがこん かいさんげ]

その意味は

「私が遥かなる昔から造ってしまった諸々の悪業は、無限の過去からの貪りや怒り、無知が原因の身体と口、心から出てきたものであり、それらの行いの全てに対して今私は懺悔致します」

三通りの懺悔

懺悔には三通りの懺悔があり、下品、中品、上品となっていて、この懺悔を行えば罪が消えるのですが、これは普通の人が出来る技ではありませんので不可能だと思います。

  • 下品の懺悔…目から熱い涙、全身の毛穴から熱い汗を流して懺悔
  • 中品の懺悔…目から血の涙、全身の毛穴から熱い汗を流して懺悔
  • 上品の懺悔…目から血の涙、全身の毛穴から血の汗を流して懺悔

しかしながら本当に懺悔をしようと思うのなら、これ位難しいことなのです。

毎日懺悔すること

私達は懺悔の意味を良く理解し、毎日唱えて心から悔い改めることで同じ過ちを繰り返さないように誓うのです。

嘘というものは毎日同じような嘘を繰り返せば罪の意識が無くなってしまい、嘘をつき通すためには新たな嘘で塗り固めてしまいます。

全く嘘をつかない生活をするようにと言われたら実はこれほど難しいことは無いかもしれません。

たとえ小さな嘘であっても罪の意識を持ち、悔い改めて、同じ過ちを繰り返さないようにすることから真の修行が始まるのです。

過ちを犯さない時間をどれだけ過ごせたか、或いはどれだけ過ちを犯さない魂に近づけたかという事が大切なのです。