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法事をしないとどうなるか
昔から言われることとして、たとえ自分の生活が苦しくても、法事などの先祖供養をしなかったら、罰が当たる、先祖に守ってもらえない、極楽浄土に往けないなどの事が言われています。
法事をしないということ
法事をしようと思ったら出来るのに、しないという選択をする人もおられます。
その理由として
- 檀那寺に対する不信感や僧侶に対する嫌悪感
- 親戚付き合いをしたくない
- お金が無い
- 法事をすることに価値を感じない
などの感情や気持ちからくるもので、都会暮らしをしている人にとってお寺や親戚と付き合うということ自体が無縁のものになりつつあるという事実があります。
また地方で暮らす若い人でも、寺院はお金を取るばかりで何も得られないという批判や、葬儀の時に高額なお布施を取られた、高額な寄付金を請求されたなどのお金にまつわる不満などが積もり積もってお寺と縁を切りたい、離檀したいと真剣に考えている人も居るのです。
日頃から不満を感じていれば当然のことながら、法事はもうしないという気持ちになってしまうものです。
法事が出来ない
法事をしようと思っていても出来ない方の理由として今はお金が無いから出来ないという方も居られます。
また現在は新型コロナの影響で高齢者ばかり集まる法事であり、感染したら重症化しやすいので、新型コロナが終息してからにしようと思っておられる方も多いです。
法事の規模が大きくなると集まる人が多くて会場設定が大変なので、身内の者だけで済ませるという方も増えてきました。
法事が出来ない場合には、出来るようになってからすれば良いことですし、参加されるであろう方にもその旨伝えれば分かって頂けるものです。
法事の効果とは
法事は「追善供養」とも言って、亡き人に功徳と言われる善い行いを届けることであり、亡き人の死後の世界には大いに役立つことです。
仏教では「自業自得」と言いまして、自分の為した行いの結果は自分で受けるものであり、「因果応報」と言いまして善い行いには良い結果が現れて、悪い行いには悪い結果が現れるのは基本原理ですが、功徳というものだけは本人が積んだもの意外に私達が亡き人に届けて差し上げることが出来るのです。
亡き人に対して何か持たせてあげたい、今からでも何か届けてあげたいという時には功徳を送ることが出来るのです。
また法事をすることによって亡き人のために功徳を積むことは自分や参加した人の徳にもなります。
功徳は積めば積むほど善悪の判断が正しく出来るようになり、多くの人に慕われるようになり、人に対して優しく接することが出来るようになります。
功徳というものは目に見えないものであり、死後の世界で役に立つものですから、生きている時には大して役に立たないかもしれませんが、人は誰でも必ず死ぬことを思えば、死後に何を持っていけるかという時に、生前中の徳しか持って行けませんので、ある意味貯金みたいなものです。
法事をしないと罰が当たるだろうか
法事は絶対にするべきで、法事をしなかったから罰が当たるというものではありません。
しなくても何も起こらないのです。
亡き人を粗末にするようなことをしたら自分も粗末にされるだけのことです。
もしかしたら自分の死後に後悔するかもしれませんが、後の祭りです。
もう一度言いますが、罰は当たりません。
死が必ず来るもので、その時のために準備しておこうと考えるかどうかの問題です。
同じような事は宗教についても言えることで、信じれば救われるけれど、信じなければ何も起こらないだけのことです。
信じないから罰があたるということはありません。
お寺の住職のせいで法事をしたくない
それではお寺の住職がお金のことばかり言う、人間的に到底尊敬できないなどの理由で法事をしたくない場合はどうでしょうか。
これに対しては二通りの考え方が出来ます
法事を頼むのはお寺の御本尊
法事を頼んで読経するのは寺の住職だけれど、本来であれば寺の御本尊様に頼んでいるのだから気にしないという考えです。
自分にとって嫌な住職、ダメな住職がお寺に居続けることが出来るかどうかを決めるのは御本尊様であるはずです。
住職が寺に居る資格無しでしたら御本尊様が黙っている訳ありません。
本来は住職と言えども御本尊様の使い走りをするだけなのです。
御本尊様は仏様ですから、供養のことは御本尊様にお任せすれば良いのです。
嫌なものはしない
どうしても許せない、言動に耐えられないという寺院や住職も確かに存在します。
その場合には無理して法事をする必要はありませんし、場合によっては真面目に拝んでくれる所に頼んでみたら違いがはっきりと分かるはずです。
仏法を実践していない寺院や住職を支援することは罪作りを続けていることになってしまいます。
親族との付き合いや長年の寺院との付き合いでどうにもならないこともありますが、今は江戸時代のような強制的な檀家制度はありませんので、先祖を供養してくれる寺院は自分で自由に選ぶことが出来る権利は誰でも持っているのです。
最悪の場合には離檀ということも考える必要があるかもしれません。
法事をすることについて
法事は亡き人の供養のために行うものであり、自分達のことばかり優先される現代に於いてはどうしても後回しになってしまいます。
輪廻転生と法事
六道の輪廻転生という考え方からすると、人は死後にすぐ生まれ変わるはずであり、あの世で修業したり功徳を受け取ったりすることは無いのですが、輪廻転生と言っても、絶対的な決まりごとがある訳でなく、六道にすぐ行くようなこともあれば、50年、或いは100年の猶予があるとも言われ、これはあくまでも天が決めることです。
しかし功徳というものの本質は、たとえ故人が生まれ変わっていても届けることが出来るし、本人の魂のために役に立つものであることから、法事の功徳は決して無駄になることはありません。
思い出すことが供養
亡き人のことを思い出すことは功徳になります。
これは人間にしか出来ないことで、思い出して亡き人のことを語り、功徳を届けるという目には見えないことをするのです。
私達にとって神仏や先祖は全て目には見えない存在ですが、元々そういった世界と繋がることのできる能力は誰もが持っていて、例えば天の世界や浄土の世界ではイメージしたものを相手に届けるという事が普通に出来ることからすれば、供養というものは神々の世界に近づくための方法なのかもしれません。
忘れることも供養
私達の寿命は年々伸びていますが、それでも百年位の寿命だとして、自分が死んだ後に50年経てばほとんど忘れられてしまい、百年も経てば完全に忘れられてしまうのですから、これは宿命と言うものであって、いつまでも忘れずに覚えていて欲しいという事は間違いなのです。
今の時代の流れる速さからすれば百年経てば人も環境も全く違うものになっていますので、百年前の人のことなど誰も知らなくて当然ですから、忘れられて当たり前なのです。
ある意味忘れるということは執着を無くすということで、仏教的には悟りに近づく方法なのかもしれません。
するかしないかは自分次第
少なくとも私達は法事をすることによって、先祖からの魂の流れを感じ、少ないながらも身内の者が集うことにより、血縁、ご縁を感じて大切にし、力を合わせることによって、より良い生き方に反映すれば、法事としての立派な役割があるのです。
答えとしては、法事は自分のための功徳にもなりますので、すれば心が豊かになるが、しなくても生きていられる、という感じです。
心を豊かにしようと思った時に、意外と皆さん、高いお金を使って遠い所に行きたがるのですが、考えようによっては、法事とは安くて近い心の栄養補給なのかもしれません。
お金と時間の使い方としては自分一人が満足するために使っても何も残らないものです。
人のために使えば相手が幸せになります。
神仏のために使えば、神仏は救ってくれることになります。
御先祖のために使えば、御先祖様は守ってくれることになります。
お金を増やす秘訣は自分だけのために使うのではなくて、目に見えない神仏やご先祖のために使うことなのです。
自分のためにお金を使えば物が増えたり満足感が得られたりなどで実感がありますが、目に見えない方のためにお金を使ってもすぐには目に見える結果として現れることが無いのです。
しかし物や満足感というものは、すぐに飽きたり無くなったりするけれど、目に見えない世界からの満足感は心が豊かになるのです。
檀那寺が無い場合に、法事もしくは先祖供養をしようと思ったら、やすらか庵に来て頂ければ拝んで差し上げます。