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散骨供養は仏教的に正しい
お釈迦様は四苦と言って私達が必ず経験する生老病死の事象について避けることが出来ない苦しみであると説き、この苦しみから逃れるためには執着することを止めて、悟りを得しかないと説かれました。
悟りという仏の目から観れば死ぬことは当たり前のことであり、肉体にこだわることは止めなさい、若い人でも必ず歳を取って老いぼれの身になるし、やがて死を迎え、輪廻転生の果てしない長い旅の中での一コマであって、魂の修行こそが最も大切なことなのです。
肉体にこだわらないという意味では散骨供養は仏教的に理に叶っていますが、お釈迦様が入滅した時に弟子や親族、果ては動物までもが最後のお別れのために遠方から訪れたという話は、お釈迦様の人徳だけでは無くて、人の死に対する純粋な弔うという気持ちの表れであり、荼毘に付された後にお遺骨を分配されたということも弟子たちの師匠に対する気持ちの表れであり、ごく自然の成り行きだと思います。
死というものを家族として、人として厳粛に捉え、亡き人への感謝の思いを伝えることは在家の身にとっては必要なことであり、亡骸を自然に還すのに、供養の気持ちで送り出すことは私達日本人の仏教徒としての自然な姿なのです。
お墓というものは執着であり、死後のことに拘ってはいけないという意味ではお墓は必要無く、執着を持たないという意味において散骨供養は正しいのです。
土葬は自然葬であった
明治時代から昭和初期にかけての長い年月の間、人が亡くなると村はずれの所定の場所に遺棄するか埋葬する自然葬の時代が長く続きました。
地球上では人に限らず全ての動植物が死して次なる命の糧になるということを延々と繰り返して参りましたので、私達も地球上の生命の一員として自然に還るという運命を背負っているのです。
江戸時代から続く仏式の葬儀にしても土葬を前提としたものであり、人は死して土に還るということが長く行われてきました。
今でも地方に行きますと集落を見下ろす山の上に墓があり、亡き人はそこで土に還ると共に、守り神となって子孫の家を守るという役目を果たしているのです。
密教としても
真言宗などで墓地に使われる供養塔は、名前が分からないような先祖代々の供養をするための塔で、5個の石むで出来ており、それぞれの石には梵字が刻まれており、キャ、カ、ラ、バ、アと読み、空、風、火、水、地を意味しますが、この宇宙は空、風、火、水、地の構成要素で出来ており、私達の身体もまた同じ構成要素で出来ていますので、所詮宇宙からの借り物であり、最後にはお還しする約束になっているのです。
地は大地の要素であり、皮膚や脂肪、筋肉などは土葬すれば土に還り、火葬すれば灰になります。
水は血液や体液などの要素であり、土葬すれば土に還り、火葬すれば大気中に放出されます。
火は体温の要素であり、亡くなった瞬間から体温は大気に放出されます。
風は空気、ガスの要素であり、土葬でも火葬でも大気中に放出されます。
空は体があった空間のことで、土葬すればやがてなくなり、火葬では骨という形で残ります。
この宇宙のすべてのものが循環していて、結合しては分解することを繰り返しているのです。
我が国固有の宗教観
我が国の仏教は純粋な仏教ではありません、純粋な仏教でしたらお葬式をする必要もありませんし、法事をすることもありません。
輪廻転生して抜け殻になった亡骸に対しては何もする必要はないのです。
しかし我が国では死者に対しての民族としての固有に宗教観が深く根付いており、死者に対する恐れや尊厳などが墓として、または葬儀として引き継がれているのですが、特に家を大切にする固有の観念は生きている家族を大切にし、更には亡き人も家族の一員として大切にするのです。
また亡き人はある期間を過ぎますと家の守り神となってやがてはまた家に戻ってくるという信仰は、家族の絆を強め、家を大切にするという我が国独特の観念として定着し、その連帯感によって我が国は他に類を見ない発展を遂げたのです。
今の時代は欧米の個人主義が世界的な流れとして定着し、個人の幸せばかり求められるようになりましたが、相手の幸せを願うのが仏教の基本であり、最も身近な相手のいる空間が家族なのです。
個人主義ばかり目立つようになりますと、国は衰退していくものです。
今こそ家族の大切さを認識し、亡き人も含めて家族であり、感謝の気持ちを手向けることが家族として、或いは国として豊かになる秘訣なのです。
地球上の生き物として
命ある地球上の動植物は全て例外なく命が尽きたら大地もしくは海に還り、次なる生命の糧となることを太古の昔から延々と繰り返してきました。
私達の身体を構成している肉体は地球からの借り物であると共に、還すべきものであり、次なる生命を育てる糧になる定めなのです。
亡き人の遺骨であっても、いつまでも骨壺に入れたままにしておくことは、生命の掟に背くことであり、自分勝手な行動なのです。
粉骨もまた供養である
散骨するためには遺骨を粉状にする粉骨が必要ですが、この粉骨にしても悪徳業者が後を絶たず、葬祭という認識が全く無い、飼料の粉砕と同じことをしている業者ばかりで、機械で粉骨するなど愚の骨頂、亡き人が迷うばかりで、供養のための粉骨、つまり粉骨供養が必要なのです。
やすらか庵では最初に儀式を行い、手作業で祈りながらの粉骨供養を実践しています。
感謝の散骨供養
私達は一人で生きている訳では無くて家族の縁、仕事の御縁、周囲近隣の御縁、神仏との御縁などによって生かされているのです。
それらの御縁の大切さを感じた時に心は感謝の気持ちで溢れ、只ひたすらに有難うの感情が湧き上がるのです。
神仏に対して、そして亡き人に対して有難うの感謝の気持ちを表現し、お見送りをするのが散骨供養であり、亡き人との絆は一層深くなるのです。
亡き人に有難う
お別れと言うものは突然やってきて大切な人を奪っていくもので、だれもがまさか亡くなるなんて思っていないですから、後になってもっと優しくしてあげれば良かったとか、もっと理解してあげれば良かったとか思うものですが、今となっては亡き人はもう目の前に居ません。
しかし亡くなった後になっても亡き人に対して自分の出来る最大のことをして差し上げたい、自分の思いを届けたい、と思うのが人情なのです。
有難うと言ってお別れするのは辛いことですが、お別れというものはしっかりしておかないと亡き人がこの世に思いを残したままになってしまいます。
だからこそ有難うと言いながらお見送りするのです。