毘沙門天-命神

命とは

命というものは何でしょうか、結構簡単に答えられそうで実は難しいですね。

細胞のような、心臓のような、脳のような感じがしますが、違いますよね。

一言で言えば「生きていること」であり、全ての動物や植物も

生きているという意味においては、命があるのです。

命があるから生きているのであり、人間ならば悲しいこともあれば

楽しいこともある、生きているということは、活動している状態で、

気やエネルギーに満ち溢れている状態なのです。

命は頂きもの

科学というものは、ものすごい勢いで進化しています、特に近年は

コンピューターを使った解析の発展がすさまじく、宇宙の果ての姿や

宇宙の生成の姿など、本当は神のみぞ知るようなことまでも

分かるようになってきているのです。

医学の発展もしかり、細胞の中のDNAに書いてある情報が読み取れるようになりました。

しかし、どうしても分からないことがあります、

それは命というものがどうやって出来たのかです。

そして細胞の複製や移植、細胞から臓器を作るようなことも可能になってきましたが、

細胞というものを1から作り出すことは出来ないのです。

いくらお金を出しても作れない命は当然お金に換算することが出来ません。

基本は、「親がいて子が出来、子は親になり、親は死んでいく」

を繰り返しているだけなんですが、

物質的に作ろうと思っても作れない、お金で買えない、という意味では

命はとても貴重なものなのです。

命がけ

例えば仕事、これは絶対に成功させないと会社が潰れる、或いは首が飛ぶ、

なんていう切羽詰まった仕事をするには、普段と同じ気持ちではいけません。

普段なら何も考えなくてもスムーズに進んでいくような仕事でも、

こういう切羽詰まった状態では準備段階から違うはずです。

そして何よりも取り組む気持ちが普段とは全く違って、緊張するはずです。

これは、仕事に失敗したら生きていけないかも、

という命に係わる緊急事態だから、命がけの覚悟が必要なのです。

命をかけるとは、いつ死んでも絶対に後悔しないという心がけであり、

それだけ真剣な証拠なのです。

誰だって今すぐに死ねと言われて、「はい、そうします」という人はいないでしょうし、

洗面器で顔を洗っている時に、「楽にしてあげましょう」と言われて誰かに

顔を洗面器の中に入れ続けられたら、誰だって「何をする!」と怒って

顔を上げますよね。

私達人間の場合、生きるということは、息をするということであり、

息をしているからこそ、生きているのです。

心臓は動かしたり止めたりは出来ませんが、息というものは普段は無意識に行っていますが、

意識的にしたり止めたりすることも可能ですよね。

しかし、息をすることを止めることは大変な苦痛を伴いますし、

例え短い間息を止めたにしても、我慢できなくなって、次の息をするものです。

生きることを止めるということは、最大の苦しみであり、

誰だって一番したくないことでしょう、出来ればもう少し長く生きたい、

命というものは何よりも大切なもの、

その命をかけるということは最大の覚悟がいるのです。

命を差し出すということ

釈迦-捨身施虎

釈迦前世の話として有名な「捨身飼虎(しゃしんしこ)」があります。

7世紀に建立された世界最古の木造建築物である奈良の法隆寺には

国宝の「玉虫厨子」があり、須弥座と言われる台座に捨身飼虎が描かれています。

その内容は、飢えた虎が子供を食べようとしていて、

それを見た王子(釈迦の前世の姿)は崖の上から自らの身を投げて虎に食べさせ、

子供を救ったという話です。

こういう前世があって釈迦は悟りを得ることが出来たのですが、

自らの身を投げて他人を救うことが最大の善行となっているのです。

こういうことは誰にでも出来ることでは決してありません、

今の時代にもしこのようなことがあったとしても、

見ていた人はスマホやケータイで警察を呼ぶくらいのことしかできないでしょう。

もし、釈迦の前世のこのような時代に同じ場面に出くわしたとしたら皆さん、

どうされますか。私だってきっと、釈迦の真似は出来ません。

誰も真似の出来ないようなことをしているから、

釈迦の悟りは真似しようと思っても出来ないのです。

しかし、命を差し出すということは、このようなことなのです。

命を差し出すようなフリをする位では神様は誤魔化せません。

しかし、命を差し出す、この覚悟さえあれば、神様も味方してくれるのです。

ここで大切なことは、何時死んでも構わん、という位の本気でやれば、

神様も味方してくれ、結果として物事がうまくいくのです。

師匠と弟子

私が以前にお師匠様の寺でお勤めさせて頂いていた頃、

何をやってもうまくいかない時期がありました。

そういうことは鋭く見抜く師匠です、しばらくは見守って頂いていたのですが、

ある時、これはいかんと思われたのでしょう、

私が境内でブラブラしている時に、

大きなよく切れるナギナタを持ってスタスタと歩み寄り、

物凄い形相で私の首の上にナギナタを振り上げて、

「お前は生きるんか、死ぬんか!」と一喝されて、思わず私は

「生きます」と答えたことを思い出します。

師匠は2017年10月21日に遷化されましたが、偉大な師匠でした。

もしも私があの時に「死にます」と言っていたら、間違いなく首が飛んでいました。

もし、そういうことになったら自分も責任を取るという覚悟があって出来ることなのです。

これぞまさしく「命がけ」であり、

私が師匠に一生をかけて少しでも御恩返しをしなければいけないと思っている

原動力なのです。

命を守る神

毘沙門天は命がけで物事に取り組む人を応援するとと共に、

命を守ってくれる神でもあります。

元々仏法を外敵から護るという役目を果たしておられますので、

毘沙門天の教えを聞く者の命も守ってくれるのです。