如意宝珠

毘沙門天は金の神

毘沙門天は金の神でもあります、神様なのに、

お金のことなんて、いやらしいとお思いでしょうが、

勘違いしないでくださいね、お金は元々神様に捧げるための物ですよ。

本来お札は神仏に捧げるもの

お札(おふだ)とお札(おさつ)は全く同じ字ですが、実は同じものなのです。

台湾の道教では紙銭と言って模造紙幣を燃やして

先祖や神々の世界に届ける習慣が今でも残っていますが、

お札(おふだ)とお札(おさつ)は先祖や神々に供えたり、霊力を籠めたりするもので、

神聖なものであり、天界に届けるため、或いは天界から届けられるもので、

とても有難いものですから、決して粗末に扱ってはいけないんです。

私達が使うお金とは

本来、先祖や神々のために使うお金が、何故私達の所に回ってくるのでしょうか。

それは私達が働かないとお金を作り出せないからであり、ある意味私達は

神様にお供えするお金を作り出すために働いているのですが、

私達が働くということは、多くの人々が係わっているということであり、

その係わっている社会を成り立たせるためにもお金が必要になってくるのです。

要するに神々に供えるお金を作り出すために働いて、

そこから少し私達の社会を成り立たせるためのお金を使わさせて頂いているのです。

お金は欲望の象徴

そんな有難いお金ですが、お金というものは、とても便利なもので、持ってさえいれば、

自分の好きなもの、欲しいものが手に入ります。

そして生ものではありませんので、貯めておけば後で使えるという優れものなのです。

私達は釈迦ではありませんので、楽をしたい、遊びたい、あれ欲しい、これ欲しい、

おいしいものを食べたいなどの欲望が必ずあります。

しかしこれらの欲望は、一度満足させてもまた湧いてくることの繰り返し、

これらのことを満足させるためにもお金が必要です。

そして一度満足してしまった欲望は更に大きな欲望となり、

その大きな欲望を満足させるためには、さらにたくさんのお金が必要になるのです。

お金というものは、更に便利なもので、足りなければ借りるということが出来るので、

気付いた時には借金地獄になってしまって、苦しんでいる人の多い事。

お金は欲望の象徴なのです。

働かずして入ってきたら

お金というものは、大抵は働いた対価として入ってくるものです。

1日中外の工事現場で肉体労働してもその対価として、

或いは快適なマンションの中でパソコンの株価の操作をするだけの労働でも

その対価として入ってくるものです。

働き方としては、肉体を使うか頭を使うか、などの違いはあるものの、

基本としては、働いた結果として入ってくるのがお金なのです。

ところがこの世の中には、働かずして入ってくるようなお金もあります。

例えば親が残した財産、何もしなくても入ってくるのですから、

少しでも多く欲しい、というのが人情です。

親の立場としたら、家族が仲良くやっていくためにと残した財産も、

少しでも多く欲しいという者たちの醜い争いで裁判沙汰に、

そして最後は親子であれ兄弟であれ喧嘩別れになる始末。

この喧嘩別れは次の世代も同じことを繰り返し、永遠の不幸に引きずり込まれます。

働かずして得られるお金というものは魔物です、

お金は不幸になるためのものではなくて、幸せになるために使うものです。

人を幸せにするために使え

お金は自分の幸せのために使ってもいいけれど、

自分の幸せは喜んだらそれでおしまい、自己満足と言われても仕方ない。

しかし、お金は元々神々に捧げるものだと思えば、

自己満足に使うのはほどほどにして、他の幸せのために使うのが正解です。

~極楽浄土に初めて行った人の話より~

極楽浄土に来たばかりの人がとても素晴らしい宮殿に通されて、

宴会の席に案内されると、見たことも無いような御馳走が並び、

感無量、早速に頂こうとすると、何と、箸が異様に長いではありませんか。

そんな長い箸をどうやって使うのかと周りを見てみると、

自分のために使っているのではなくて、他に食べさせるために使っていたとのこと。

なるほど、仏の位になれば、自分のことなど考えない、

他の幸せが自らの幸せということが徹底されているのです。

しかし、人に喜んでもらえるということは、とても素晴らしいことですよ。

究極の喜んでもらえる姿は、命の恩人として喜んでもらえるということです。

例えば生きる望みが無くなって、これから死のうという人を助け、

尚且つ生きる気希望を与えることが出来たなら、この感謝はおそらく一生ものです。

命の恩人として喜んでもらえるような感謝の仕方は、

おそらくその人が生きている限り、一生感謝し続けてくれることでしょう。

これだけの感謝は「徳」として財産となり、

この徳こそあの世に持って行くことが出来る貴重な財産なのです。

あの世にはこの世で築いた名誉も地位も財産も持って行くことは出来ません、

持って行けるのは、この世で成した「行い」だけなのです。

この世で成した行いは「善行」と「悪行」です。

どうせ持って行くのなら、善行をなるべく多く持って行くべきです。

お金をたくさん得るための方法

お金をたくさん得るための最も簡単な方法は、

神様を喜ばせることです。特に毘沙門天は

  • 言われたことを正しく実践する
  • 人を幸せにするために使う
  • 神のために使う

毘沙門天も自らの使命をお持ちであり、法を説いています。

その方を実践する、或いは広めるということは、とても大切なことです。

また、お金は基本、人と神のために使います、人というのは赤の他人であれば

困った人の救済に、身近な人であれば家族です。