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自分が変わるとは
誰にでも自分なりの考え方や物事に対する捉え方、感性などがあって皆それぞれに違うのですが、自分の考え方を人に押し付けることなく、自分が変わることが出来る人は優れた人であり、多くの人から好かれます。
自分を変えようとしない理由
学校や職場の中には、あの人はどうも気が合わないとか、気に入らないことばかりするとか、そういう嫌な人が必ずいますよね。
あんな人は早く居なくなって欲しいと思っていませんか?
また、友人、家族などと喧嘩した時も、悪いことをしたなと思っていても、自分から先に謝るのは嫌ですよね。
相手が先に謝れば自分も謝ってもいいと思っていませんか?
こういう時に誰でも同じように思うことは、あの人が変わってくれればいいのに、とか、相手が先に謝ったら自分も謝ってもいいとか思うのですが、これは、自分が変わらずに相手に変わって欲しいという典型的なパターンなのです。
決して自分が変わろうとは思わないのですね。
相手を変えようとすること
名誉や地位、お金は相手を変えさせるという意味では格好の材料です。
例えば会社の上司が気に入らない部下に向かって、これは命令だから〇〇しなさい、と例え屈辱的なことであってもさせることをすることが出来ます。
とても有名で権力のある国会議員でしたら、先生と言って近づく人達を自分の手下として使うことが出来ます。
お金をたくさん持っている人は、札束をチラつかせれば、誰でも自分のわがままを叶えてくれます。
いずれにしても名誉や地位、お金を使って相手を自分に従わせているのです。
時にはどんなに嫌な事でもしなければいけないので、こういったことは、相手の心を変えさせているということなのです。
自分は何も変わらなくても、ただ優越感に浸っていれば良いのです。
しかし、このような事は、名誉や地位、お金もそれらがある間だけのことで、無くなってしまえば、誰も相手にしてくれる訳ありません。
プライドとは
相手と喧嘩した時に、少々は自分の方が悪いかなと思いながらも誰だって謝りたくありません。
少々反省したところで、相手が先に謝れば自分も謝ってもいいなんて、都合のいいことばかり考えているものです。
先に謝るということは、自分が悪いということを認めるということでもあり、喧嘩の原因なんて、自分が正しいと思う人が2人いて、意見が対立した結果として喧嘩になる訳で、お互いに自分が正しいと思っているのです。
先に謝るということは、自分が間違っていたことを認めることであり、絶対にそんなこと出来ない、これがプライドというものであり、勝負で言うと、謝った方が負け、謝ってもらった方の勝ということで、当然勝者は優越感に浸り、自分の考えが間違っていないことを誇らしげに思い、敗者は自らの考えが間違っていたことを認め、みじめな屈辱感を味わうことになるのです。
この勝者の優越感ばかり味わう人は、敗者の屈辱感を絶対に味わいたくありません、
たとえ自分が間違っていても、何とかして勝者の優越感を味わおうという無駄な努力が始まるのです。
「小さな罪が大きな罪を作り出す」これがプライドの正体で、小さな罪は家庭内の喧嘩ぐらいで済みますが、大きな罪になると、国家間の戦争という事態にもなるのです。
プライドにこだわっても何も徳しない
人よりも優位に立ちたいという気持ちがプライドで、プライドにこだわった結果として、大なり小なり争いが生じます。
争いというものは、喧嘩や戦争になる訳で、体や心の傷を伴います。
喧嘩の結末としては、どちらかが我慢する、あるいはどちらも我慢するということで大抵は落ち着くのですが、こういった我慢の積み重ねは、いつか大きな争いになってしまいます。
争いになってお互いに傷ついて、身も心もボロボロになってしまって初めて、自分の愚かさに気付くもので、プライドの行きつく先は破壊でしかないのです。
苦労して築き上げてきたものでさえ破壊してしまう、プライドは悪魔のささやきであり、破滅への道しるべなのです。
意見の違う相手の心を無理にでも変えさせるプライドは、何の徳にもなりません。
プライドというものは所詮自己満足で、相手の屈辱感の上に成り立ちます。
自己満足の積み重ねの人生なんて、終わってしまえば何の役にも立ちませんし、何の充実感も無いのです。
高い所から見下ろせば
自分が住んでいる家が見下ろせるような高台、山に登ってみましょう。
上から見下ろせば、広いように感じる街並みがとても小さくて、自分の家などは豆粒程の大きさでしかありません。
その豆粒の中で一生懸命に暮らしているのです、何と小さな存在でしょう。
その豆粒程の家もあと100年経ったら、そこにあり続けるでしょうか。
人生なんて、何とはかない、あっという間に終わってしまうものなのです。
神仏やご先祖様の目線は、常に高い所からあり、そういう目線で物事を見ると、細かい争い事など、どうでもいいのです。
人生は修行である
私達は生まれ変わり、死に変わりの中で、今は人間界に生まれて生きていますが、何も残せない空虚な人生を歩んでしまうと、次に人間界に生まれてくることは大変に困難になります。
というか、地獄や、餓鬼、畜生などの世界に堕ちてしまうと、修行というものが出来ないので、上に上がっていくのは絶望的です。
人間界の大きな特徴は、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)世界の全ての要素を兼ね備え、修行が出来るということなのです。
仏道の修行は、自分が持っているつまらない価値観を捨てることの連続です、プライドなんて持っていたら、修行など出来ません。
むしろプライドを捨てることに大きな喜びを見出すのです。
プライドなんていうものは、いざ捨ててしまえばゴミのようなもの、なんでこんなものにこだわっていたのかと、バカバカしくなってしまいます。
そしてプライドを捨ててしまったあとには、それ以上に大切なものが見えてくるのです。
それは神仏、ご先祖と共通の喜びである、他の幸せであり、他の幸せが自らの幸せになってくるのです。
他を幸せにすることは、徳であり、生きている内に貯めることができ、死後も持って行くことが出来る宝物です。
自己満足で終わってしまうか、徳を選ぶかはあなたの自由です。
喧嘩した時でも先に「ごめんなさい」と謝ることが出来る人が真の勝者なのです。
毘沙門天信仰
毘沙門天信仰は、勝負必勝の信仰ですが、見かけの勝者になることではなくて、真の勝者になるための教えです。
自分が変わるということは、なかなか簡単なことではありませんが、変わることで、更なる大きな幸せが見えてくるのです。