喜捨とは

喜捨とは

喜捨とは寺社や僧侶などに対して喜んで金品を施すことを表す仏教用語です。

執着の要因となる金品を所有する欲望から離れて寺社や僧侶に寄付することで功徳を積み、仏道の完成を目指します。

「捨てる」こと

僧侶の説明

ここで言う「捨てる」は不要の物を放るのではなくて、投げ打つことです。

私達が普通に「捨てる」と言えば不要になった物をゴミとして放ることであり、不要になった物を何時までも取っておくとゴミ屋敷になってしまいます。

仏教では「捨」という字がよく登場し

  • 喜捨(きしゃ)…喜んで捨てること
  • 捨施(しゃし)…自分の財産を捨てて人に施すこと
  • 捨身(しゃしん)の行…自らの肉体を仏に施す行
  • 捨身供養(しゃしんくよう)…仏道修行のために我が身を捨てて供養すること
  • 捨身往生(しゃしんおうじょう)…自分の生命を断って極楽に往生すること
  • 捨身月兎(しゃしんげっと)…ウサギの捨て身の行で月に行った話
  • 捨身飼虎(しゃしんしこ)…釈迦の前世で飢えた虎に自らの肉体を布施した話

これらの「捨てる」に共通なのが「惜しげもなく放り出す」ということです。

仏教で言うところの「御布施」とは、仏教に帰依する証として寺院や僧侶に対して金品を提供することですが、大切な物を提供することが真の布施であり、功徳になるのであって、自分が不要になった物や価値の無い物を提供することは功徳にならないとされます。

寺院や僧侶にとって必要な物を提供するという意味では灯明の供養は「灯明供養」と言われ、昔は油を提供していたのですが、今では油やロウソクを買うためのお金を提供するようになりました。

また寺院の法具や備品などを寄進することも良く行われます。

最も大きな捨てることは、全財産を投げ打つことであり、出家する際には金品に対する執着から離れるために教団に全ての財産を寄進するのですが、新興宗教や既存の宗教の中には出家と引き換えに布施として多額の金品を受け取って、家族や親族とトラブルになることがあります。

喜んで捨てる

貧者の一灯

「喜捨」とは喜んで捨てることですが、相手に金品を施すだけして自分はそのお礼を受け取らない、という行為は私達の普通の感覚では受け入れ難いことではないでしょうか。

私達は現代の経済社会の中では働いてお金を得て、そのお金で必要な物や欲しい物を買うという仕組みに慣れていますので、たとえば自動販売機にお金を入れてボタンを押せば商品が出てくるのが当たり前であり、お金を入れてボタンを押しても何も出てこない自動販売機など存在しないのです。

困った時に助けてくれた人に対して「ありがとう」のお礼を言うことも当たり前であり、お礼の言葉があればお互いにとても気持ちの良いものですが、お礼の言葉が無かったとしたら、何か気に入らないことでもしてしまったのかなと考えてしまいます。

世の中にはお礼を言ってもらうために親切をしている人も居て、新設の押し売りみたいなものですが、そういう人の親切に対して、お礼があれば機嫌良く、お礼が無ければ機嫌が悪くなるのです。

寺院や僧侶に対して喜んで只金品を施すだけで何の見返りも期待しない人は一体何が嬉しいのでしょうか。

この世の金品は何の価値も無い

親の脛をかじるイラスト

私達の世界での金品はたくさん持てば持つほど裕福になり、豊かで楽しい生活を送ることが出来ます。

お金持ちの人は美人の奥さんが居て豪邸に住み家政婦を雇い、高級車を乗り回し、時には海外旅行もして、毎日豪華な物を食べてパーティでは多くの人が集まってきます。

着ている服も持物も全てブランド品で羨ましい限り、こんな生活してみたいと誰もが思い、人間社会では如何に裕福になるかの競争社会なのです。

しかし仏教の開祖である釈迦は、金品に恵まれた豊かさというものは幻であり、消え去ってしまうものであるからこそ執着すべきではない、捨て去るべきだと説いたのです。

その理由としては

  • 今の豊かさが永遠に続く保障はない
  • 豊かさを維持するために人を傷つけてしまうことがある
  • 豊かさを維持するためだけに日々が過ぎていく
  • もっと豊かになりたいという欲望に支配される
  • 金品の豊かさで心が豊かになる訳ではない
  • 何時までも若く居られない
  • 歳を取ったら欲しい物が無くなってくる
  • 死後の世界に何一つ持っていくことが出来ない
  • 金品の豊かさで来世が決まる訳ではない
  • 現世での時間は永遠の旅のほんの一コマに過ぎない

真の幸せ

清浄な雰囲気

仏教で喜捨を説くのは、私達の魂は永遠の旅を続けていて、この世の時間はあっという間に終わり、幸せはすぐに消え去ってしまうので、金品にこだわって人生を終わらせてしまうより、もっと大切なことをしなさい、という教えなのです。

永遠の旅

六道のイラスト

私達の魂は永遠の旅をしていて、今はたまたま人間に生まれたかもしれないけれど、また人間に生まれる保証は何一つありませんよ、ということに気が付くかどうかの問題なのです。

私達日本人の寿命は百年ぐらいになりましたが、それでも私達の永遠の魂の旅に比べたらあっという間の出来事です。

この生きている時間をどう使うかで自分の魂の旅の行き先が決まるのですから、金品の豊かさだけ追求して終わっても何の成果も無かったということになるのです。

魂の向上

托鉢のイラスト

魂の向上とは私達の魂のレベルを上げていくことです。

魂のレベルを上げるためには「功徳」が必要になってきます。

功徳は目には見えない徳なのですが、仏教的に善い行いである「善行」をすれば功徳を積むことが出来ます。

しかし悪い行いである「悪行」をすれば功徳を減らしてしまいます。

私達の永遠の魂の旅では金品は何一つ持っていくことが出来ませんが「功徳」だけは積み重ねることが出来ます。

その功徳を積むための大切な行として喜捨があるのです。

仏教国であるタイでは僧侶が毎日托鉢のために鉢を持って街に出て、在家の信者は僧侶の鉢に食べ物などを入れて施しますが、出家者である僧侶は決してお礼を言うことなく、信者がお礼の礼拝をするのです。

托鉢は僧侶が寺院から外に出て、民衆の功徳を積む機会を設けているから、功徳を積ませて頂いたということで、民衆の方が僧侶に礼を言うのです。

そういった功徳の思想が定着している社会では、喜捨は自らの徳を積むことが出来る行なのです。

正しい喜捨

貧者の一灯

金儲けの宗教団体が立派な建物を建てるために喜捨を強要したり、インチキな拝み屋が悪霊を取り除くためにと多額の喜捨を要求してトラブルになることが後を絶ちませんが、間違った法を説く寺院や僧侶のために喜捨をしても無駄なことで、何の徳にもなりません。

間違ったは喜捨は何の徳にもならないばかりか、悪徳にさえなってしまいますので注意が必要です。

正しいか間違っているかは「悩み苦しみなどで困っている人の救済を何の見返りもなくしているかどうか」を見れば分かります。

  • 〇十万円の喜捨を持ってきなさい
  • 預かるから全財産喜捨しなさい

などと教団や僧侶から言ってくるのは正しくありません。

本来の喜捨は今の自分に出来る限りの精一杯の布施をすることです。

喜捨とお焚き上げとの関係

やすらか庵のお焚き上げ供養

喜捨は物に対する執着を捨てるための修行ですが、お焚き上げ供養も物に対する執着を捨てるための大切な修行です。

お焚き上げで執着を捨てる

喜捨は寺院や僧侶に金品などを施すことであり、仏を祀る寺院や仏に仕える僧侶を支援することで功徳を積むことであり、金品はそのままの形で役に立つことになります。

お焚き上げ供養或いは護摩柴燈護摩は、時には金銭的な価値のある物を亡き人や神仏に届ける供養です。

お焚き上げした物は燃えて灰になりますが、天に届ける供養になります。

喜捨とお焚き上げでは目的が違いますが、供養や功徳といった目に見えない世界でのやり取りは、ある意味この世の世界の金品よりも役に立ち、自分のためにもなるのです。

物に対して一切のこだわりなく布施をする、只布施をするだけで見返りを期待しない、そういった気持ちを持つことが出来れば物に対する執着は少なくなり、人との争いが無くなり、心が穏やかになってくるのです。

物は生活の豊かさの象徴ですから、捨てると貧乏になるようでとても恐いものです。

しかしその恐怖心が物に対する執着となり、もっと欲しい、まだ欲しい、人よりも多く欲しい、奪ってでも欲しいという欲望に変わるのです。

執着を捨てたところにある幸せ

幸せを説く僧侶のイラスト

「捨てることが出来て嬉しい」と喜んでいる人を軽蔑してはいけません、とても豊かな心を持った人なのです。

物で豊かになるよりは、心が豊かになることが真の意味で幸せになれるのです。

困った人に布施をして喜べる人は幸せです。

困った人に布施をして困った人が喜ぶ姿を見て喜べる人もまた幸せです。