布施波羅蜜とは

布施波羅蜜とは

布施波羅蜜の「布施」とは梵語でダーナ(dāna)と言い、「檀那波羅蜜」とも言われ、大乗仏教で菩薩が如来になるための修行である六波羅蜜の一つ。

布施行には、財物を施す財施(ざいせ)、法を説き与える法施(ほうせ)、恐怖や不安を取り除き安心を与える無畏施(むいせ)があります

財施とは

財施とは金銭や物品などの形ある物を施すことで、国民の大半が仏教徒であるタイでは仏法を守り伝える僧侶に対して食事や生活用品、金銭などを布施する「托鉢」が日課となっています。

托鉢の時に食べ物などを差し出してくれた人に対して、僧侶は礼を言わずに立ち去りますが、僧侶に布施する托鉢と言うものが施主にとって功徳になることであり、僧侶が托鉢をすることによって民衆に功徳を積む機会を作ってくれたということで、金品を差し出した方が僧侶に礼を言うというのが真の托鉢なのです。

施しは、余っているから、捨てるのがもったいないからと差し出すのではなくて、自分にとっても大切な物を差し出すのが施しであり、布施することを喜捨とも言いますが、喜捨とは「喜んで捨てる」つまり大切なものではあるけれど、執着心を捨てて差し出すことなのです。

法施とは

法施とは仏法を施すことで、悩み苦しむ人が仏法に出会うことによって救われたとしたら、法が人を救ったことになるのです。

仏法とは真実の教えであり、より良く生きていくための智慧であり、幸せになるための方法でもあります。

仏法は悩み苦しみを解決する方法を説いていますので、良く学ぶことによって一人でも多くの人が悩み苦しみを解決し、善悪をよく見極め、安心の境地になって、次の人にまた伝えていくことが法施なのです。

仏法は深遠なものではありますが、私達の実際の生活に役立つものであり、私達の心を豊かにしてくれるのです。

釈迦の時代には弟子達が釈迦の教えを説いてまわり、法施の行を実践していましたが、出家した僧侶の本来の仕事は法施であり、仏法を一人でも多くの人に伝えるべく努力するべきですが、我が国では一部の堕落した僧が日々の勤行もすることなく、読経はしても法を説くことはなく、贅沢三昧の生活をしていますが、お釈迦様の顔に泥を塗るようなことはするべきではありません。

釈迦の入滅後2500年以上経過してもなお、我が国で仏法の灯が灯され続けてきたのは、先人たちの凄まじい努力の結果であり、どの宗派であっても法の灯を消さないようにと守り続けているのです。

釈迦以来、実に多くの人達が仏法の有難さに感激し、これを一人でも多くの人に、そして後世にも伝えないといけないという使命を感じさせるのが法施なのです。

無畏施とは

無畏施とは人の悩みや恐れを取り除き安心を与える布施のことで、経済的に金銭のお布施が出来ない人であっても自らの体を使って手伝いをしたり奉仕したりすることです。

釈迦は財力の無い人にも出来る布施として「無財の七施」を説いています。

眼施

眼施(がんせ)とは 優しい眼差しで人に接することです。

諺に「目は口程に物を言う」と言われるように、目つきというものは、口で語る以上に相手に気持ちが伝わるものです。

相手が嫌な人なら、その相手を見る目つきも悪くなってしまうもので、心の中の状態が目に現れるのですから気を付けなければいけません。

仏さまが優しい目つきで私達を見守っているように優しい目つきで人を見ればお互いに心が和むものです。

毘沙門天不動明王のように怖い目つきをしている仏も居ますが、諸悪に対して魔を寄せ付けないための目であり、決して相手を恨んだりするような目ではありません。

和顔施

和顔施(わがんせ)とは 和やかな明るい顔で人に接することです。

眼施もそうでしたが目つきは相手に不安を与えもしますが、安心も与えることが出来ます。

同様に顔つきも心の中の状態が相手に伝わるもので、怒る時には厳しい顔に、泣く時には悲しい顔に、そして嬉しい時には笑顔になるものです。

如来と言われる仏様の顔を見れば分かりますが、私達に対して安心を与えるような顔をされています。

仏様は安楽の境地に居られるからこそそういう顔が出来るのですが、私達も普段から和やかな境地で居られるようにしていれば、自然と顔つきも和やかになるのです。

私達は仏様と同じように、和やかな明るい顔で居られるように、そして他の人の心も和ませるような顔で居られるように致しましょう。

愛語施

愛語施(あいごせ)とは 優しい言葉をかけることです。

愛のある言葉とは、相手を思いやる言葉のことで、男女の間で特定の相手を口説く時の下心ある言葉ではありません。

自分のことは言わない、相手のことだけを思った言葉であり、損得勘定抜きで、見返りを全く期待しない優しい言葉なのです。

人に対して相談に乗ったり、話をする時には、どうしても自分の感情が入ってしまったり、損得の計算をしてしまいがちですが、自分などどうでもよい、相手の立場に立って、相手のことを真に思う言葉が思いやりのある言葉なのです。

身施

身施(しんせ)とは自分の体を使って奉仕する、布施することです。

お寺に参拝した人がお金が無いから、大したことが出来ませんからと、お掃除の奉仕をすること、災害が起こった時にすぐに駆け付けて困っている人を助けることなどが身施です。

災害復旧のために会社の社員を現地に派遣することも身施です。

体を使った奉仕は寺院では「作務」と言い、僧侶の生活は作務に始まり作務に終わります。

心施

心施(しんせ)とは 心の底から人を思いやる慈悲の心を施すことです。

相手を思いやる心は持とうと思って持てるものではありません。

人に対して「善い心を持ちなさい」と言っても絵に描いた餅で、無駄なことです。

悪い心を持った人に対して「善い心になりなさい」と言っても絶対に変わりません。

自らの心の中から沸々と湧いてこなければいけないのです。

今の自分の命が、この広大な宇宙の中でかけがえのないものであり、今善い行いをしていないと永遠に後悔すると思ったら心施が自然に出来ることなのです。

仏と言うものは誰かに頼まれて人を思いやっているのではありません、安楽の境地に居るから自然に出来ることなのです。

牀座施

牀座施(そうざせ)とは先輩やお年寄りに自分の席を譲る行為のことです。

仏教では仏の説法を聞くのに自分の座る場所はとても大切なもので、出来れば悟りを得た仏のすぐ近くで説法を聞けば、その御利益で自分も悟ることが出来るかもしれないのです。

自分が悟ることが出来るかもしれないという大切なチャンスを捨てても席を譲るということは、喜捨の精神であり、こだわりを捨て去ること、ある意味悟りであり、「大切であると思っているこだわりを捨てなさい」ということなのです。

そういう意味では電車に乗っていてお年寄りに席を譲るのとは少しニュアンスが違いますが、電車でお年寄りの方に席を譲るのは立派な牀座施です。

房舎施

房舎施(ぼうじゃせ)とは困っている旅人に一夜の宿を提供したり、休憩の場を提供したりする行為のことです。

四国の八十八か所の巡礼では昔から「歩いている人はお大師さんだと思いなさい」と言われていて、とても大切にされ、「お接待」と言いまして、食事や宿を無料でおもてなしする習慣が残っています。

しかし今の時代は善良な人が物騒な事件に巻き込まれたりニュースが後を絶たず「人を見たら泥棒と思え」「知らない人に話しかけてはいけません」「一人で歩いてはいけません」などと親が子に教えるようになってしまいました。

「トイレを貸してほしい」と言う人を家に入れたら口にはガムテープ、体は縄で縛られて金銭を奪われたという事件も多発しています。

「水道の点検です、或いは水漏れしていますよ」と言われて作業員を家に入れたら縛られたり包丁で刺されて金品を奪われたという事件も多数ありました。

それだけ人の世が乱れてしまったことに依りますが、房舎施の基本、或いは布施の基本は、困っている人を助けて差し上げることです。

いきなり見知らぬ人が訪ねてきて家に泊めてくれと言われても、怖いという気持ちが先立つものです。

今の時代のことですから泊めるか泊めないかは別にして、自分の出来る範囲で救済して差し上げることが大切なことです。

布施波羅蜜の実践

布施波羅蜜は実践しないと意味がありません、布施と言うものはすればするほど豊かになるものです。

捨てること

布施は「喜捨」(きしゃ)と言われるように自分にとって大切な物を喜んで差し出すものです。

新興宗教ではこのことを逆手に取って「あなたの財産はあなたに執着を生み出すものであり、執着を捨て去るためには全ての財産を教団に喜捨しなさい」と言われて身ぐるみ剥がされるのです。

それで本当に救われて幸せになるのでしたら悪いことではありませんが、何もかも無くなってしまってから「騙された」と気が付いても「時すでに遅し」なのです。

到底自分には釣り合わないようなイケメンに騙されて金品を貢ぎまくり、借金地獄にはまった頃には見事に捨てられていたなんていうこともありますが、大切な人に対しては何でも貢ぎたくなるのが人間の本性なのです。

仏教では仏法僧のことを三宝と言いまして、三つの大切な宝物と説きます。

  • 仏は釈迦のように法を説く仏のことです
  • 法は釈迦の説いた教えのことです
  • 僧は釈迦の教えを広める人のことです

仏法僧は私達の悩み苦しみを取り除き、真の幸せを説いていますので、仏法僧に布施することは功徳になるのです。

功徳とは善行であり、蓄積するものであり、死後の世界にでも持っていけるのです。

まずは私達は捨てる前に、必要のないものを買わないことです。

そして豊かな生活だと思っている「物に溢れた」生活を見直すことです。

やすらか庵のお焚き上げは、物に対する考えまで提案しています。

捨てることは悟りにも繋がることですら、真剣に考えて実践してみましょう。

困った人を助けること

釈迦はこの世に生きる人たちの悩み苦しみは永遠に無くならないことを悟りましたが、何時の時代にでも悩み苦しむ人は居る訳で、全く悩み苦しみのない人は存在しません。

しかし病気や仕事上の悩み、家庭の悩みなど、長年悩み苦しんでいる問題から解放された経験を持つ人なら、同じ苦しみを持つ人の気持ちが分かるはずですし、何とか力になって差し上げたいと思うものです。

最近では大規模自然災害が増えて、毎年被災者の方が突然苦しみのどん底に突き落とされたりしていますが、そういう時にボランティアの方の奉仕の御蔭で心身共に救われた方も多いのです。

困った人を助けることもまた功徳になります。

多くの仏が私達の苦悩を救うために活躍しておられるのです。

仏教の実践は功徳を積む実践でもあります。