慈悲とは
慈悲とは他の苦しみを取り除いて楽を与える仏菩薩の心のことで、慈はサンスクリット語のマイトリー(maitrī))に由来して衆生に楽を与えたいと願う心、悲はサンスクリット語のカルナー(karuṇā)に由来して衆生の苦しみを取り除きたいと願う心のことです。
抜苦与楽とは
抜苦与楽は仏教用語で「苦しみを取り除いて楽を与える」ことですが、仏教では衆生が生まれながらに持つ苦しみとして四苦八苦を説き、生きることは苦しみであって、その苦しみから逃れるためには悟りを得て輪廻転生の輪から抜け出して解脱するしか方法が無いとされます。
悩み苦しみの海で溺れる衆生にとっては、その苦しみから抜け出そうと必死の思いで手を尽くすのですが、たとえその苦しみから逃れられたにしても新たな苦しみが次々と襲ってくるのです。
苦しみというものは取り除くことが出来れば楽になることが出来、安楽の境地を楽しむことが出来るようになります。
自分の苦しみが取り除けたことで得ることが出来た安楽の気持ちを自分一人で楽しむのではなくて、他の困っている人にも楽しんでもらいたいと思うのが仏の心です。
そして人の苦しみを取り除くことは大いなる功徳となって、更に深い安楽の境地に至ることが出来るようになるのです。
苦しみを取り除くだけではなくて、生きる喜びとしての楽を与えることは仏法を説くことであり、仏法の中には何時の時代でも変わることの無い真の楽が説かれているのです。
そして究極の楽は極楽浄土などの浄土であり、仏の居られる仏国土なのです。
四無量心とは
四無量心もまた多くの衆生に対して仏菩薩の持つ心であり
- 慈無量心…相手に楽を与えたいと願う心
- 悲無量心…相手の苦しみを取り除きたいと願う心
- 喜無量心…相手の幸せを共に喜ぶ心
- 捨無量心…偏りのない平等で平静な心
仏の役割は衆生の苦しみを取り除いて楽を与えるだけでなく、幸せになったことを共に喜び、何事にも捉われることの無い平等で平静な心を持ち続けることです。
苦しみから抜けた出すには
今の時代、自分のことばかり考えて行動する人ばかりで、家庭に於いても社会に於いても他人を傷つけて落とし込むようなことが日常茶飯事、鬼の形相で争い合うのですから、心の中はまるで地獄の世界、苦しみに満ちた世界になっています。
苦しみは分かりやすく言えば疫病神に憑りつかれた状態で、疫病神というものは憑りついた人が苦しめば苦しむほど喜びますので、疫病神に憑りつかれたら不幸が増大し、その様子はまるで坂道を転がり落ちるような光景です。
厄病神が好む人とは
- 愚痴ばかり言う
- 感謝の気持ちが無い
- 怒りの心に支配されている
- 物に対してガツガツと貪る
- 悪口ばかり言う
- 人の不幸を喜ぶ
- 人の幸せが憎い
- 自分のことしか考えない
- 一人ぼっち
- 下を向いてばかりいる
- 泣いてばかりいる
このようなことに少しでも該当すれば要注意です。
苦しみから抜け出すには仏の心を持つこととで、その実践こそが抜苦与楽、そして四無量心の実践なのです。
仏の心に少しでも近づけば疫病神などは自然と去っていきます。
慈悲行の実践
慈悲の心は仏の心、仏の世界では慈悲の心に満ちた住人ばかりで、一切の争いが無く平和で平穏な世界です。
皆が他の幸せを願い、自分だけの幸せを願う者が居ない世界では、騙したり騙されたりするようなこともなく、安心に満ちた世界なのです。
仏の世界ではなくても私達人間の世界でも慈悲行を実践すれば、小さいながらも仏の世界が広がっていきます。
同じ人間世界の中でも、騙したり騙されたり傷つけ合ったりする地獄の世界も人間の心によって作り出された世界であり、その反面、平穏な天界の世界も作り出すことも出来るのです。
あなたには「絶対に騙したり裏切ることの無い本当に信頼できる人」は居ますか?
あなたには「どんなことでも隠し事が無く話が出来る人」が居ますか?
あなたが慈悲行を実践していれば、あなたに共感した人が周りに集まるようになってきます。
そして裏切ることの無い信頼出来る関係が出来てくるのです。
慈悲行とは「他の苦しみを取り除き、楽を与える」ことです。
困っている人の苦しみを取り除いてあげましょう。
何の報酬も期待せずに、心の底から安心出来る真の幸せを相手に差し上げましょう。
それが慈悲行の実践であり、仏に近づくための方法なのです。