夢が叶う
夢が叶うとは、将来実現しようと思っていることや、心に思い描いていたことが実現することです。
夢とは
寝ている時に自分の意志とは関係なく、あたかも現実のように見たり経験する現象のことを「夢を見た」と言いますが、将来実現しようと思っていることや、心に思い描いていることも「夢」と言います。
夢とは現実の世界で実現していないことを言うのですが、実現してほしいと思うようなことは、心の中でイメージすることが出来ますので、たとえば受験で合格したいと思ったら自分が合格した姿を思い描き、マラソンで一番になりたいと思ったら自分が誰よりも早く走っている姿を思い描くものです。
心の中のイメージは強く思えば思う程、脳の中に深く焼き付いて、寝ている時に夢として見るようなこともあるのです。
夢を描く
将来実現出来たら良いなと思うことは人によって様々な形があり、それを夢と言いますが、夢があれば少々辛いことがあっても頑張ろうという気持ちになり、夢を実現した自分を思い描くことが生きる楽しみとなるのです。
夢はある意味「幸せ」の姿であり、人は誰しも幸せになりたいと思っているのですから、幸せになることは心の満足が得られることであり、心の満足は物による満足を越えたところにありますので、悟りを目指す仏教にとって大切な要素なのです。
イメージトレーニング
スポーツの世界でも最近はイメージトレーニングの手法が採用されており、オリンピック選手も積極的に訓練していますが、如何にメンタル面で強くなれるかが勝敗を決める大切な要素になっているのです。
スポーツ選手はたとえ順調に勝ち続けていても、大切な場面でミスをしたとたんに気が動転してミスを連発し、敗れ去るという結果になりがちですが、メンタルの強い選手は気持ちの切り替えがとても速く、少々のミスがあってもすぐに取り返すのです。
イメージトレーニングには勝ち続ける自分をイメージしたり、ミスをしてもすぐに気持ちを切り替える自分をイメージすることで、そのイメージ通りに競技を進めていくのです。
この手法は瞑想や観想の応用ですから、私達も様々な場面でこのイメージトレーニングを活用すれば、イメージ通りの結果につながりやすいのです。
観想
瞑想は心の中を空にする方法ですが、体の中や外にイメージを作り出してそのイメージに集中し、操る方法を観想と言います。
先ほどの呼吸法が何も考えることなく上手く出来るようになってから挑戦してみて下さい。
1.で10秒ぐらいかけて口から息をゆっくりと全部吐き切る時には、体の中に溜まった煙のような黒い毒素を外に吐き出すイメージを観想します。
2.で10秒ぐらいかけてゆっくりと鼻から息をゆっくりと吸い込む時には、外にある光り輝くエネルギーの粒を吸い込んで体の中に入れ、お腹の丹田の位置に溜めるイメージを観想します。
2.で10秒ぐらいかけてゆっくりと鼻から息をゆっくりと吸い込んで、お尻の穴をぎゅっと閉じたら丹田の所に力を入れてそこから出ている光が四方八方に飛び出してくるイメージを観想します。
丹田の位置はおへその少し下の位置になります。
この呼吸を5~10回ぐらい繰り返したら普通の呼吸法に戻し、自分の夢が実現するイメージを思い描いてみて下さい。
悪い夢は自分に跳ね返る
思い描く夢は可能な限り
であることが理想で、たとえば嫌いな人が病気になりますように、などの悪い夢を思い描くことはいけません。
受験にしても「合格しますように」だけで充分であり、「○○君が落ちますように」などを想うことはいけません。
悪い夢ばかり思い描く人は幸せになることが出来ませんし、必ず自分に跳ね返ってくるのです。
神仏の力
私達の世界は目に見える物だけで成り立っている訳ではありません。
神仏やご先祖様の力などの眼には見えない世界の方がはるかに広くて大きいのです。
私達が知っている世界は大宇宙の中では砂漠の中の一つの砂粒ぐらいの世界なのです。
夢を実現するのに大きな力を持って居られるのは何と言っても毘沙門天がダントツです。
私達のすぐ傍に居られて私達の願望のことを知り尽くし、欲望を認めながらも仏の世界に導いて下さるのですから、私達は只ひたすらに帰依すれば後は導いて下さるのです。
やすらか庵の毘沙門天祈願の御札は500円で個別の祈願をして郵送致しますので一度お試しあれ。
強い神様に付いてもらえば悪い者が憑くことがなくなってきます。
努力が必要
夢を実現しようと思ったら最も大切なことは自分が努力することです。
何もせずに夢が叶うことはありません。
神仏の力と自らの努力が合わさった時にようやく夢が実現する道が開けてくるのです。
自分自身の力だけでもありません。
自分自身が最大限努力して、それを神仏が見ていて、その努力を認めた時に初めて応援して下さるのですから、実は簡単なことではないのです。
神仏に頼んだのに一向に良くならないとか信じられないという人は、神仏からも信じられていないのです。
神仏から信じられるような人にならなければいけないのです。