開経偈とは
開経偈とは仏教の各宗派の毎日の勤行の時に必ず最初に唱える偈文で、仏教徒として持つべき心構えが説かれています。
開経偈の内容
開経偈(かいきょうげ)は経典を開く時に唱える偈文なのでお経ではありませんが、仏教徒としての真摯な心構えを唱えれば身が引き締まります。
開経偈の本文
無上甚深微妙法 [むじょうじんじん みみょうほう]
百千万劫難遭遇 [ひゃくせんまんごう なんそうぐう]
我今見聞得受持 [がこんけんもん とくじゅじ]
願解如来真実義 [がんげにょらい しんじつぎ]
開経偈の意味
この上もなく深くすぐれた仏の教えは
永遠の時を経てもありえないほど 出会うことは難しい
私は今その教えを受けて見聞きさせていただくことができました
願わくば仏が説く真の意味を理解させてくださいませ
開経偈の由来
開経偈は釈迦の説いた法ではなく、中国で作られた偈文ですが、作者は不詳と言うことで分からないまま日本に伝わってきました。
一説によると開経偈は、仏教を崇敬し、官寺を大雲寺として保護したり、畜類の殺生や魚の捕獲を禁止したことで有名な則天武后が神秀(じんしゅう)と慧能(えのう)という名僧を長安に迎え入れたことを記念して則天武后が自ら作って唱えたとされていますが詳細は不明です。
内容的に見ても熱烈な仏教の信者が自らの心の内を表現したことで、仏法の尊さが伝わってきます。
仏教との出会い
開経偈には、私達が永遠に近いほどの長い時間を生まれ変わり死に変わりしても仏法に巡り合うことは難しいと説かれていますが、不可能に近いような巡り合いの偶然に気付いた時に、やっと目の前に訪れた仏法にただひたすらに感謝する気持ちが込められています。
「百千万劫」とは気が遠くなるほどの長い時間ということですが
「大智度論」には一辺が四千里の城に芥子粒がぎっしり詰まっていて、100年に1粒ずつの芥子粒を取り出していった時に、城の中の芥子粒が全部無くなっても劫に満たないという程の長い年月のことです。
つまり仏法には何時でも必ず巡り合えるということではなくて、仏法が無い時や修行が出来ない時代に生まれることもあれば、人間以外の道に堕ちていくこともあるからこそ、巡り合うことが難しいと言われているのです。
また「涅槃経」(ねはんきょう)という経典には「盲亀浮木」(もうきふぼく)という話があります。
大海にくびき(穴の開いた木)が浮かんでいて、風の吹くまま、潮に流されるまま漂っていて、100年に一度息をするために浮かび上がる盲目の亀がいると、その盲目の亀もまた大海を彷徨っていて、100年に一度だけ浮かび上がるのですが、果たして浮かび上がった時にくびきの中に頭が入るかという問いがあります。
盲目の亀ですから、穴の中を狙うことも出来ませんし、今どこにいるのかも分かりません。
これは確率的に無理だと思うのですが、このとんでもない確率と同じ確率で今私達は人間の姿をして仏法に巡り合ったのだと。
普通にはあり得ない事なので「有難し」「ありがとう」なのです。
この感激は感謝の言葉「ありがとう」を述べるしか他にないのです。
真実を知ること
どうやら私達が人間の姿でこの世に現れるという事は簡単なことではなさそうです。
人間に生まれたにしても貧困の国、自由が奪われた国、戦乱の最中にある国などに生まれることもありますので、仏法に巡り合えて自由に修行できる環境なんて望んでも得られないものなのです。
そうしてやっと巡り合えた仏法でも、正しく理解しなければ、宝の持ち腐れになってしまいます。
開経偈の最後に「願解如来真実義」とあるのは、せっかく出会った仏法に対して、正しく理解することが出来ますようにとの願いが込められているのです。
そう考えますと遊んでいる場合ではありません、のんびりくつろいでいる場合でもないのです。
私達は仏法を正しく知ることによって真の意味での「幸せ」の境地に近づきましょう。
遊びも娯楽も生きている時にしか楽しめませんが、はかなく消えてしまうもので、蜃気楼を見ているのと同じこと、現れては消え、現れては消えを繰り返しているだけで、私達はその蜃気楼を必死に追いかけているのです。
仏法では「諸行無常」永遠に続くものは何もないと説きます。
しかし物は消えゆくけれど、真実は消え去らないのです。
私達は真実の世界で生きていくようにしましょう、悪いことをせずに、正しいことを行うだけでよいのです。