目次
肩の荷とは
肩の荷とは責任や与えられた任務などの負担のことで、普段は目には見えない精神的な負担を、荷物として背負っている様子に喩えたもの。
背負い続ける責任
私達は知らないうちに多くの責任を背負っていますが、責任というものは目には見えないものだけに、案外気が付くことなく日々を過ごしているのです。
私達が背負っている責任とは
- 家族を養う
- 子供を学校に行かせる
- 家賃を支払う
- ローンを払い続ける
- 病気の家族を支える
- 親の介護をする
- 現在の仕事を期日までに完了させる
- 納得いく仕事をする
- 試験に合格する
- 資格を取る
- 現在のトラブルに対応する
- 嫌な上司の命令に従う
- 部下が言うことを聞かない
などで家に於いては親、子、夫婦でそれぞれの責任があり、会社に於いてもそれぞれの部署で皆一人一人に実に多くの責任、責務があるのです。
責任に押しつぶされないこと
都会では月曜日の朝になると電車が人身事故で頻繁に止まりますが、会社における責任、責務に押しつぶされて耐え切れなくなった方が「行ってきます」と家を出た後に電車のホームから身を投げるのです。
前週の金曜日まで耐えて耐え抜いて家に帰って息を抜いたのも束の間のことで、また地獄の会社に行くと思えば体が拒否してしまうのです。
そこまで追い詰められる理由としては
などの様々な理由があり、またこれらの理由が複雑に絡み合った結果としてまずは精神を病んで、ついには体調も崩すようになってきます。
そんな事する位なら会社を辞めれば済むことではないかと誰もが思うのですが、当の本人は辞めて次のことを始める勇気も無く、誰にも言えずに一人で悩み、最後には死を選ぶまで至ってしまうのです。
性格的にいい加減な人は思い悩むことはありませんが、責任感と正義感の強い人で、心優しく面倒見の良い人に限ってあらゆる責任を自分で背負ってしまうのです。
場合によっては人が良いことを利用されて、失敗の責任を押し付けられたり、騙されたりするようなことも多く、今の世の中「正直者が損をする」とまで言われて、時には平気で嘘をついてでも世渡り上手である人が出世するような仕組みになってしまっているのです。
しかし責任感に押しつぶされてしまってはいけません。
何故なら責任とは目に見えないものであり、時には悪鬼になって人を攻撃し、不幸を喜ぶという悪事を働くこともあるからです。
肩の荷を降ろしてみよう
私達は知らない内に多くの責任を背負っていて、肩の荷として背負ったまま歩き続けているのですが、荷物というものは何時も背負い続けていますと、その重たさが分からなくなってしまいます。
重たい荷物であるが故に常に体に負担が掛かり、余計な力が必要になりますし、疲労が大きくなり、肉体的な不調に繋がるのですが、病院に行っても症状を緩和する薬を処方されるだけで、根本的な治療にはなりません。
肩の荷はストレスとなって蓄積しますので、ストレスを取り除くことが急務なのですが、肩の荷がストレスの原因になっていることに気が付かなければ、何時までも背負ったまま歩き続けるのです。
しかし肩の荷を降ろした人は、その荷の重さに驚くと共に、肩の荷のせいで体調が悪くなってしまったことに気が付くはずです。
肩の荷を降ろしてしまえば全てのことが良い方向に向かい始めるのです。
肩の荷を降ろすには
肩の荷を降ろすには一旦休憩することで、丸一日何も予定を入れずに休んだり、自然の中を散策したり、旅行に言ったりの気分転換をするのです。
兎に角今ある責任や責務の一切から離れてみることです。
海を眺めるのも良し、山に登るのも良しで、仕事の事などは敢えて考えないようにします。
何処にも出かけたくなかったら家に居て寝てばかりいるよりは、靜かな環境の中で姿勢を良くして座り、出てくるいろんな雑念の一切に捉われることなく、心の中を空にするようにします。
肩の荷のチェック
肩の荷を下ろして心の中を空にするだけでも十分に効果がありますが、責任や責務の入ったリュックサックを一旦下ろしてから中身をチェックしてみましょう。
きっと自分が背負った責任や責務が山のように出てくるはずです。
その責任が本当に必要なものかどうかをチェックしてみましょう。
必要が無いと判断したら迷わず捨て去ることで、リュックの中身が随分と軽くなるはずです。
肩の荷を全部捨ててしまうことは出来ないでしょうから、大切なことはなるべく肩の荷を減らすようにすることです。
そして一度下ろしたらもう増やさない事、増やさないように心掛けることです。
必要の無い肩の荷とは、人間関係のストレスや自分がしないとダメだと思い込んでいる仕事のことで、自分ではなくても出来る人が居ればお任せし、嫌いな上司に対しては何を言われたにしても怒らない、気にしない実践をするのです。
肩の荷は捨てるだけではダメで、自分自身の意識の改革が必要なのです。
或いは私の技量では失敗するかもしれないというギリギリの所で持ちこたえている責任は、捨ててしまうと本当に失敗してしまうかもしれませんので、こういう時こそ神頼みで、神仏の力をお借りすれば気持ちが楽になるのです。
天の教え
私達人間世界の一つ上の天の世界では責任はあるのでしょうか、そして肩の荷を背負っているのでしょうか。
責任とは
釈迦は一国の王子としての立場が有りながらも家族や名誉、地位などの一切の肩の荷は不要と判断して修行の旅に出て遂に悟りを得るまで至ったのですが、私達が同じことをしても悟りに至るどころか、路頭に迷うだけのことです。
私達が人として生きていくにはある程度の肩の荷は仕方ないことであり、毘沙門天にしても妃の吉祥天と子の善膩師童子(ぜんにしどうじ)と揃って敢えて人間家族の姿を取ることで、親として、家族としての責任を説くのです。
天の世界にも最後まで生きるという責任がありますし、天としての正しい行いと言う責任もありますが、魂のレベルが高い方ばかりなので、それを責任と感じることは無いのです。
相手のため
私達は人間である以上、誰でも必ず何らかの責任を背負っていて、生きることや、正しい行いも大切な責務ですから、全部の責任を捨て去ることは出来ませんが、 こういった責任を義務として絶対にしなければいけないことというプレッシャーを感じるのではなくて、「相手の幸せのために喜んでさせて頂きます」と思い実践することが天の教えなのです。
天界では自分の喜びのために生きることは致しません、相手の喜びのために生きるのです。
天界では自分の為した善なる行いに対して相手から見返りを期待することが無いので恨みの感情が芽生えることがありません。
天界では競争の結果で評価される世界ではありませんので責任感で苦しむようなことはありません。
しかしこれらのことは私達の世界でも実現することが可能ですから、一番身近な環境から始めてみて下さい。
少しずつではありますが天の心を持てるようになれば肩の荷が増えていくようなことがありません。
毘沙門天の教えを学ぶと共に、願うということを同時に行えば必ずや応援してもらえます。
私達が何かを始める時に神仏の力があれば大いなる力を頂けます。
神仏は悪なる行いに対しては味方しませんが、善なる行いに対しては味方してくれます。
肩の荷を下ろしてみませんか?