鑑真和上とは

鑑真和上のイラスト

中国の南山律宗の継承者であり、日本に渡海して戒律を伝え、戒壇院を創設した我が国における律宗の開祖。

鑑真の経歴

鑑真のイラスト

鑑真は中国の揚州に生まれて14歳で得度して大雲寺に住み、18歳で道岸から菩薩戒を受けて20歳で長安に行き、律宗と天台宗を学びました。

鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒したと言われています。

鑑真が揚州の大明寺の住職をしていた時に、日本から唐に渡った僧の栄叡、普照らが訪れて、授戒の出来る僧10人を日本に派遣して欲しいとの要請に対して名乗り出る弟子が居なかったために自ら渡日することを決意して、そのことを聞いた弟子達21人も随行して5回も試みた日本への渡海は悉く失敗して、6回目の渡海で漸く日本にたどり着くことが出来ましたが、度重なる苦労のために両目が失明していました。

天平勝宝6年(754)には平城京到着して聖武上皇の歓迎を受けて東大寺に戒壇院を作り、聖武上皇をはじめとして430人に授戒を行ったのが最初の戒壇であり、その後戒壇院が建立されました。

東大寺の戒壇院に引き続き、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇を築かれて、これらの三つの戒壇を天下の三戒壇と呼ばれていました。

天平宝字2年(758)には淳仁天皇の勅により大和上に任じられると共に、労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされました。

天平宝字3年(759)には唐招提寺を創建して戒壇を設置しました。

鑑真は彫刻や薬草の造詣も深かったので、日本にこれらの知識も伝え、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ僧として有名です。

天平宝字7年(763)に唐招提寺で寂滅。

命がけの渡海

遣唐船のイラスト

鑑真は両目を失明するほどの苦労の果てに日本に渡海しましたが、当時の船による航海の成功率は5割と言われていましたので、往復して無事に帰って来る確率は2割5分のような確立になってしまいます。

そのような中で6回も渡航を計画した鑑真の不屈の精神は並々ならぬものがあり、仏法興隆のために命を懸けるということは捨身の修行だったとも言えるのです。

このような方が居られたおかげで私達が今仏法に接することが出来ることに感謝するしかありません。

743年夏初回渡海失敗

743年夏には渡海を阻止しようとする弟子によって日本の僧は海賊であるとの密告を受けた港の役人によって日本人の僧は追放され、鑑真の計画は中止されました。

744年1月2度目渡海失敗

744年1月には周到な準備の上で出航するも、激しい嵐に遭って明州に戻る。

再度3度目渡海失敗

失敗した後すぐに出航を企てるも鑑真を惜しむ弟子の密告によって栄叡が逮捕され、計画は中止に。

再度4度目渡海失敗

栄叡は病死を装って出獄して福州から出航を企てるが、この時も鑑真の弟子の密告によって計画は中止に。

748年6月5度目渡海失敗

再び栄叡の懇願によって渡海を決意した鑑真は6月に出航して舟山諸島で数か月風待ちをして11月に二本に向け出航するも激しい嵐に遭って南方の海南島に漂着。

751年になって海南島より明州に戻る途中で疲労のために両目を失明しました。

753年11月6度目渡海

またもや役人に通報されて阻止されるも内密に4船中の第2船に乗船し、第4船は不明になり、残りの3船は沖縄に漂着し12月には南風を得て第1船はベトナムに、そして第2船と第3船は12月7日に屋久島に到着。

そして20日には鹿児島に到着して12月26日には大安寺の延慶の迎えを受けて大宰府に到着。

754年2月4日にようやく奈良の都に到着することが出来ました。

しかしこの時には両目が失明していたものの、日本の仏教界が待ち望んでいた鑑真は朝廷の歓迎を受けて仏教の新たなる歴史を刻んでいくのでした。