最も大切な物

一番大切な物

皆さんが持っている物の中で最も大切な物を一つだけ選ぶとしたら何ですか?

身の回りにある物の中では車や道具、コレクション、ブランド物、絵画、骨董品などいろんな物が思い浮かぶでしょうけれど、たぶん自慢の一品で、入手するのに苦労した物ではないでしょうか。

世界に一つしか無いような物でしたら二度と入手できないでしょうから、絶対に手放しませんし、売ったり誰かに上げたりするようなことも無いでしょうから、大切にしますよね。

私の大切な物は

私が大切にしている物は毎日使っている物ですが、遷化された師僧から頂いた道着です。毎日使いますから汚れもしますし、ほころびも有りますが、大切な物です。

何故大切かと言いますと、師僧が着ていたからであり、目的を持って進んでいたその意思がこびり付いているからです。

法の力というものは、物を介して伝わるもので、100パーセント受け取ることが出来れば良いのですが、まだ修行中ですから全然ダメですが、それでも師僧の後押しは充分に感じます。

法は受け継ぐもの

本当でしたら一番大切なのは師僧が説く法なのですが、物ということで道着にしましたが、本当に大切な物は受け継ぐものであり、不滅なのではないかと思います。

物は諸行無常である

釈迦の説法-物について

諸行無常とは永遠に続くものは何もないということであり、特に物質的な物に関しては移ろい行くもので、どんなに大切にしていた物であってもその人が亡くなれば、捨てられたり誰かの物になったりする訳で、或いはいつかは必ず壊れてしまい捨てられる運命なのです。

釈迦はこういうことの全てを修行の中で体得し、物に執着することを止めるように説いているのですが、私達凡人は欲の世界から抜け出すことは困難です。

諸行無常だと分かっていても欲を捨てきれずに、いつまでも満足することなくまだ欲しい、もっと欲しいという欲望の輪に巻き込まれてしまうのです。

死んだら物は捨てられる

私達がどんなに大切にしてきた物でも、その価値が分かる人にとっては宝物ですが、その価値が分からなければ単なるゴミであり、何の価値も無いと判断されたら見事に捨てられてしまうのです。

死んだら何もかも捨てられる、おまけにあの世の世界に持って行ける物は一つも無い、と思えば今までこだわってきた大切な物が急に色あせてくるかもしれませんが、それが真実なのです。

物に対する執着は程々に

私達の欲望はある意味幸せになるための原動力であり、物は確かに私達の生活を豊かにしてくれます。しかし家族の中であっても自分だけの楽しみであるような物でしたら家族からの理解が得られないばかりでなく、喧嘩の原因にもなるものです。

例えばフィギュアが大好きなお父さん、部屋中飾っていておまけにお金の使い方が半端でない、自分にとってはいくら大切な物であっても、価値観を認めない、価値観が分からない奥さんにとってはゴミであり、そんな無駄遣いするぐらいならそのお金で自分の欲しい物を買って欲しいとさえ思っているのです。

相手に対する思いやり

欲しい物にしても家族で欲しい物とか家族で行きたい旅行などは皆が幸せになれるお金の使い方が出来ますし、実現するためには皆で頑張ることも出来るので、相手に対する思いやりのある欲は、自分一人だけの欲に対して質の高い欲になります。

自分だけの欲で終わらせることなく、相手に対する思いやりが大切であり、それが欲という形であっても皆で仲良く努力する、家庭は修行の場なのです。

欲望とは

欲望とは「まだ欲しい」「もっと欲しい」という気持ちのことで、煩悩とも言い、満たしてもまたすぐに湧き出てくるものです

死ぬまで続く欲望

物に対する欲望というものは一旦満足すると次なる欲望に替わっていくもので、若い時には家や車が欲しいと思っていてもいい加減手に入れて満足してしまえば次なる欲望が湧いてくることの繰り返しですが、人間歳を取ってきたらだんだんと欲しい物が減って来る訳で、これはどういうことかと言いますと、体が言う事を聞かなくなるのです。

いくら良い物を持っていても使いきれないのですから必要ありません。

しかし歳を取ったなりに欲しくなるものは自分が死んだ後にいつまでも忘れて欲しくない、出来れば名声、業績を残したいということで立派なお墓を準備したり葬儀の予約をするのです。

三衣一鉢について

三衣一鉢のイラスト

釈迦以来の出家者は戒律が決められていて、持物に関しては「三衣一鉢」と言って比丘が山野で修行する時の衣である安陀会(あんだえ)、鬱多羅僧(うったらそう)、僧伽梨(そうぎゃり)と一つの鉢のみが認められていました。

それらの衣にしても糞掃衣(ふんぞうえ)と言ってゴミとして捨てられた布を拾い集めて縫い合わせた

食べ物にしても托鉢によって得られた物を平等に分けることで競争や争いの無い社会を作り、個人的な所有は欲望の源になることから禁止されていました。

僧侶は本来自分の持ち物を持たないので執着心が無いのです。

終活とお焚き上げ

終活とは自分が亡くなった時に周りの人に迷惑を掛けないようにと自分で自分の身の回りの片付けをすることです。

自分の周りをよく見まわしてみますと、要らない物ばかり、どうせ死んだら捨てられるのだからと思い切って処分して身を軽くすることはある意味仏教的な思想なのです。

まだ使える物は慈善団体や寺院などに寄付をしても良いでしょうし、使うか使わないか分からないような物は捨てても良いでしょう。

思い出が詰まっているから捨てられないような写真や記念品などはお焚き上げで天に送るのも良いと思います。

死後に持って行ける物

いくら立派なお墓を準備したところで誰も参ってくれなければ無縁仏です、生前中の業績を墓誌に刻んだところで閻魔大王には認めてもらえません、死後の世界にお金や物は一切持って行けません。

もちろん一番大切な物も持って行けませんし、愛する人も御伴はしてくれません。

持って行けるのは功徳だけなのです。