不邪見について
不邪見は間違った考えを持ってはいけないということで、身(体の行い)、口(口で発する言葉)、意(心で思う事)の規律である仏教の十善戒の中で、意業(心で思う事)に関する規律の一つです。
「邪見」とは
「邪見」とは「邪」がよこしま、いつわり、斜め、ゆがむの意で「見」がそういう気持ちで見るということです。
正しく物事を見るということは真っ直ぐに見ることで、斜めに見たり歪んで見たりすれば間違った見方になってしまいます。
邪見が良くない理由
仏教は何時の時代にも何処であっても変わらぬ真実、そして全ての事象を正しく観ることを説きますので、間違った考え方や物の見方をしますと悟りから離れていくことになり、取り返しがつかないのです。
私達は果てしない生まれ変わりの中で魂がさまよい、ある時は真実に近づきある時は真実から離れていることを繰り返していますが、一旦真実から離れてしまいますと正しい方向に戻ることが困難になってしまうのです。
間違った考え方は自らの魂を汚してしまい、更には他の人にも悪影響を与えてしまいます。
究極の邪見は邪教の教主
邪見と言われるよこしまな考えの中でも最大の邪見は、悟ってもいないのに「私は悟った」と言って信者を集める教主です。
宗教としての最終的な到達地点は悟りであることを釈迦は身をもって示し、実在の人物としての悟りを得た唯一の如来ですが、釈迦以前もそうでしたが釈迦入滅後2500年余の時を経て今もなお、釈迦の到達した悟りを目指して修行している人は数知れず、自ら悟りを得たという宗教教主もまた多いのです。
間違っている教えだとしたら多くの人を引き込んでの邪教は特に罪が重いのです。
また引き込まれた人も罪を背負うことになります。
邪見は心の作用です
考え方や物の見方は誰にとっても自由なことで、時には発想の転換が偉大なる発明を生み出すこともあります。
人によっていろいろな考え方がある反面、正しい考え方か間違っている考え方か分からない時もあります。
たとえ間違っていたとしても、自分は間違っている認識が無くて正しいと信じているのです。
だからこそ邪見という戒律は自分が常に正しいかどうかを良く観てみなさいと警告しているのです。
間違いに気付いたらすぐに直せば良いことです。
間違いがあったからこそ正しいことに気付いたと思えば良いのです。
邪見は心の作用、常に自分に対して問いかける必要があるのです。
正しい心とは
あなたの身の回りにこういう人が居ませんか
- いつも自分の考え方を人に押し付ける
- 頑固で人の言うことを聞かない
- 聞いたことを違うように解釈している
- 自分が正しいことを宣伝して回っている
- 他人が間違っていることを言いふらしている
これらのことは全て邪見のなせる業であり、仏教は常に変わらぬ真実に照らし合わせてみれば、自然に正しい答えが出てきますよということを説いているのです。