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五大とは
五大とは宇宙を構成している五つの地・水・火・風・空の要素のことです。
宇宙の構成について
この宇宙が何から出来ているのかという問いに対しての正確な答えを求めるべく、何時の時代も思想家や宗教者、科学者などが究明していますが、謎が深まるばかりで、人類の永遠のテーマなのです。
宇宙の根本物質については原子や素粒子というもので構成されているというのが科学的見解ですが、現代の科学でもまだ解明されていないことばかりですので、
古代インドでは宇宙を構成する根本的な要素があるとして、それが幾つになるのかが議論され、その一つの答えとして五大要素が挙げられています。
多分に宗教的な瞑想の中から出てきた答えと思われますが、案外宇宙の構成という意味では合理的な答えなのです。
私達が住んでいる地球にもこの五大要素は成り立ちます。
地の要素
地とは大地、地球を表して、固くて動かないもの、流動的ではなくて抵抗のあるもののこと。
大地は実際は少しずつ動いているのですが、他の要素と比較して場合の性質のことです。
水の要素
流体で形を持たないもの、流動的な性質を持っていて、変化に対して適応する性質のことです。
火の要素
火は燃焼の作用ですが、太陽のようにエネルギーとしての火としては私達に明るさと温かさをもたらしてくれています。
温かい心は仏の心につながり、冷たい心は地獄や餓鬼の心につながります。
燃える心は情熱を表し、欲望も火のようにメラメラと燃え上がります。
星が成長したり爆発したりするエネルギーの源です。
風の要素
風は形を持たず目に見えず、流れて広がっていきます。
何物にも捉われないという意味では全くの自由であり、無限の広がりを持ち、何かに束縛されることがありません。
風は私達が生きていくのに必要ですが、時には静まりかえったり、荒れ狂うことがあります。
空の要素
空の要素は虚空の世界のことであり、色も形も何もない全てを包み込む空間のことです。
空間が無ければ物質が存在しませんので、空間が必要であり、宇宙という空間は無限に広がる空間です。
五輪の塔-五大の色と形
お墓や寺院でよく見かける五輪の塔はキャ・カ・ラ・バ・アの梵字が刻んでありますが、それぞれの梵字は五大である地・水・火・風・空を表しています。
それぞれの形と色は
- 地…四角…黄色
- 水…丸…白
- 火…三角…赤
- 風…半月…黒
- 空…宝珠…青
赤青黄色の三色と黒白は根源となる色であり、四角丸三角と半月、宝珠は形としての根源です。
私達の身体と五大
宇宙が五大の構成要素で出来ていると同様に私達の身体も五大によって構成されています。
私達の肉体は直接的には両親からもらったものですが、生まれる時に宇宙の構成要素である地・水・火・風・空のそれぞれをお借りして誕生したのです。地・水・火・風・空とは
地…土の要素
脂肪や筋肉・骨などで、死んだら土に還ります、火葬するとほとんど灰(土)になり、骨が残りますが、骨も土に埋めると長い時間をかけ土になります
水…水分の要素
血液や体液などで、死んだら水に還ります、火葬すると煙突から出て行き雲になります
火…体温の要素
生きている時は体が温かいですが死んだら体から火の要素が出て行って冷たくなります
風…空気の要素
酸素を取り込み二酸化炭素を排出します。体内のガスなど、死んだら体から出て行き、火葬でも体内のガスが煙突から出て行きます
空…空間や心の要素
体の分だけの空間は死んだら必要なくなり、そして生きている時に宿っていた心は死んだら抜け出して旅だちます
この宇宙は全て五大要素から成り立ち、常に形を変えながら変化を繰り返し、元に戻ったり、結合したりして、循環しているのです。
地球もこの大宇宙の循環の法則に従い、誕生の瞬間から崩壊に向かって長い旅を続けているのです。
私達の体も同じこと、地球上の生命は皆、永遠にこの循環を繰り返しているのです。
循環の法則
例えば私達の体内にある血液や体液は、死んで火葬で焼かれると、蒸気になって煙突から出ていき、空にのぼっていきます。
やがて雲となってはるか遠くの場所で綺麗な雨になって降るのです。
もしかしたら、栽培されている野菜の葉の上に落ちて、吸収されて誰かに食べられるかもしれませんし、山奥に降り注ぎ、長い時間をかけて川の流れになって、やがては大海原を旅するかもしれません。
あなたが今飲んでいる水も誰かの体の中を通ったかもしれない水なのです。
これが循環のシステムであり、たとえどこかで汚れたにしても、空や海や土の中で浄化されてきれいになることを繰り返しているのです。
私達の体はたまたまそこにあった五大要素をお借りしてできたものです。
私達の体は魂の乗り物であり、乗り物が動かなくなってしまったら、次の乗り物を求めて旅立つのですから、肉体には執着する必要は全くないのです。
寿命がきたら丁寧にお返しすればよいのです。
動かなくなった乗り物にはもはや魂が付着していることなど無いのです。
骨には魂は付着していません、骨は神様ではありませんから、拝む必要ありません。
拝むのであれば、私達に目に見える形で、楽しい思い出を作ってくれた故人の、いとおしい体を提供してくださった大きな力と、私達に命をつなげてくださったご先祖様に、感謝の気持ちを込めて拝めばよいと思います。
よく考えてみれば、水や火・風・空の要素は完全にお返しして何とも思わないのに、骨だけにこだわるのはおかしなことです。
インドでは火葬した亡骸から残った遺骨をガンジス川に流し、死期を覚った人はガンジス川の傍にある死を待つ施設で最期の時を緩やかに過ごすことを最高の楽しみとします。
そういう意味では散骨や自然葬はとても理に適った方法と言えます。
自分の物など一つもない
生きている時には自分の物だった家や財産も死んでしまえば自分の物ではなくなります。
死後の世界には物だけではなく、愛する人や家族も連れていくことは出来ません。
自分の物と思っていた物も、実は生きている時にただお借りしていただけの物なのです。
自分の体だってお借りしていた物なのです、私達はただお借りしたものをお返しすればよいだけのことです。
自分の体を自分の物と思うと、返したくないものですが、自分の物なんて一つもありません。
たまたま自分の所にあるだけで、いつかは自分のものではなくなるのです。
自然の流れにすなおに身を任せれば、またいつか与えて下さるものなのです。