目次
常識とは
常識とは一般の人達が当然のこととして認めている意見や礼儀、マナー、ルールなどの判断や知識のこと。
常識の由来
「常」は「尚」と「巾」から成り立ち、「尚」が「長い」という意味で、古代に二ひろの長さの布を王の旗として使用したことから、「長い」「変わらない」という意味があります。
「識」は地上に立てた小枝を意味する「戠」(よく)と「言」(しん)が小旗を意味する「縿」(しん)を表していることから、目印という意味です。
小旗に付けた多くの印を見分けることが出来るということで「知る」「物事を見分けて知る」という意味になります。
つまり「常識」とは「何時の時代も変わらない知識」のことになります。
常識を身に付ける
常識とは社会生活を営む上で必要な知識として子供が成人するまでに身に付けるもので、子育ての中で親が子に教えたり、或いは学校に行って多くの人達と共同生活する中で学んでいくものです。
- 学校の規則を守る
- 交通ルールを守る
などのルールやマナー的な常識から
- 目上の人を敬う
- 障害のある人や社会的弱者の方が困っていたら手助けする
などの臨機応変な対応が必要な常識もありますが、「大多数の人が同じことをすることが常識」ということに気が付いた人は、他人から教えられることなく周囲の状況を見て自分で身に付けるようになるのです。
集団における常識
社会人として世の中で普通に暮らしていくには
- ゴミを分別して出す
- 夜遅くまで騒がない
などの周囲に対して迷惑を掛けないような常識を守っていれば平穏に過ごすことが出来ます。
常識というものは世の中の大部分の人が共通して守っていることなので、皆と同じようにしていることが平和に過ごすための秘訣なのです。
人間が社会的動物と言われる所以は、古代からの進化の過程で動物と同じような生活をしていた時に
- 集団で居れば他の動物から襲われにくいこと
- 狩りをする時にチームワークを組めば成功率が高くなること
- 集団生活での役割分担が出来ること
などの多くのメリットがあったからだと言われています。
皆が同じ考えを持ち、同じことに協力することは皆が生きていく上での大切な決まり事だったのです。
今の時代でも私達は集団で生活していることに変わりありませんので、集団を維持していく上での常識はどうしても必要なのです。
家庭も集団であり、学校も会社も集団生活なのです。
常識の無い人
常識の無いことを「非常識」と言い、常識を知らない人、守ることが出来ない人の事を「あの人は非常識な人だ」という言い方をします。
禁止された場所でタバコを吸って吸殻を平気で捨てるような非常識な人は社会に対して迷惑を掛けますので、時として新聞沙汰になるようなトラブルを起こすことがあります。
人に対して明らかな迷惑をかけなくとも、常識の無いような人は社会に対応できないようになりますが、精神的な病のために他人から非常識だと見做される人は、世の中から受け入れられる場所が無くて、閉じこもったままの生活を余儀なくされてしまいます。
たとえば光が眩しくて外出できないような人が頭から布を被って外出したら、普通の格好ではなくて気持ち悪いという理由で誰もが怖がって避けることでしょう。
時代と共に変わる常識
本来は時代が変わっても変わることの無いことが常識なのですが、皆が共通して持っている考えという意味では変わっていくものです。
第二次世界大戦前までは天皇陛下は現人神(あらひとがみ)と言われて、人でありながら神であるという立場でしたので、神として崇められていました。
第二次世界大戦に出兵した人が「天皇陛下万歳」と言って散っていったという話はあまりにも有名ですが、神様のために命を捧げるという事が尊いこと、名誉ある事として推奨されていたのですが、敗戦時に天皇陛下の「人間宣言」によって自ら人として宣言し、我が国の象徴としての天皇ということになったのです。
戦前までの人々の考えは天皇は神であるということで、写真や札を家に祀り、天皇が家を守り国を豊かにしてくれると信じて疑わなかったのですから、天皇家一族に対しても今の時代のように掲示板で誹謗中傷を投稿するようなことは決して許されることではなかったのですから、常識というものは時代と共に変わっていくものなのです。
常識の正体
常識というものの正体は何なのでしょうか、本当に必要なものなのでしょうか。
青はすすめ赤は止まれ
信号の青色は「すすめ」の合図で赤色は「止まれ」の合図であることは誰もが知っている常識で、実際に渋谷のスクランブル交差点では信号が変わる度に歩行者や車が動いたり止まったりを繰り返しているのです。
しかし横断歩道を歩いているのは眼が見える人だけではなくて、赤や青という色が分からない人もたくさん居るのです。
信号機には眼が見えない人のために音が流れるようになっていますので、必ずしも信号の色だけで「すすめ」と「止まれ」を判断している訳ではないのですから「青はすすめ赤は止まれ」という色の判断は全ての人に適用することではありません。
しかしある意味「青は安心の色」で「赤は危険な色」という世の中の常識は私達の脳にしっかりと刷り込まれていて、工場では機械のスタートのスイッチが青で、非常停止のスイッチが赤になっているのは常識の為せる業なのです。
常識は人を傷付けることがある
常識は時として人を傷付けることがあり、特にこのような言葉で
- 女のお前がやれよ
- 出来て当たり前だろ
- 皆やっているじゃないか
- 男の仕事でしょ
- 子供のくせに
世の中の常識的な発言や動作を相手に強要することは、深い心の傷になっているのです。
皆が行っているからとか、当たり前だということは世の中全てに適用されることでは無く、違うと思っている人や、出来ない人も居るということを理解しなければいけません。
常識の無い世界
私達は生きている以上、必ず死が訪れて、この世の世界から去り死後の世界に向かうことと、自分の肉体を捨てることは誰一人として避けることが出来ない事実です。
私達は死ぬ瞬間に、今まで生きてきた間に積み重ねてきた知識や知恵などの情報が溶けるように消えていき、やがてその中から自らの本性である「意識」だけが現れて次の旅へと向かうのです。
余計なものが取り除かれて意識だけの状態になった時が最大の悟りのチャンスなのです。
死後の世界を説く経典…チベット死者の書-死後の世界の詳細と解脱、転生法
生きている間に一生懸命に積み重ねた知識や知恵が全部失われ、その中には人として生きていく上で必要な常識などの情報も含まれています。
死後の世界には常識など必要なく、意味の無い情報なのです。
私達がこだわっている常識なんて、所詮そのようなものであることを覚るべきです。
かといって常識が必要ないという訳では決してありません。
常識にこだわりすぎることが良くないのです。
常識を捨て去る修行
仏教の悟りの世界では常識は邪魔になるだけです。
「こうあるべきだ」とか「こうでないといけない」という考え方は主観による考え方で、その主観が多くの人に通用すれば常識ということになるのですが、そもそも肉体を伴わない悟りの世界では生きていくための智慧など必要ないのです。
皆さんは常識に囚われ過ぎて疲れてしまうことがありませんか?
古い常識ですと
- 男は外で仕事、女は家事育児
- 良い学校を出ないと幸せになれない
- 結婚する相手の家柄は大切
- 嫁は姑に従うべき
などの常識で疲れ果ててしまった人が現代社会に続出しているのです。
「死を思う」ことは仏教の基本であり、私達は所詮「死に行く存在」であると認識した時に、今拘っていることと、拘るために使っている時間が無駄でないかということを知る必要があります。
「どうせ死んでしまうのだからもう拘ることはやめよう」ということに気が付けば「もっと大切な事に時間を使おう」ということにつながります。
静かに座って目を閉じて、今ある全ての常識を忘れてしまい、心を空にしてしまえば、必ず楽になります。
「相手がこだわるのだから自分もこだわらざるを得ない」なんてつまらないこと言っているから時間がもったいないのです。
もちろん人間社会では最低限必要な常識はさりげなくこなすことは当然の事です。
たとえば歩いている時に目の前に障害物が有ったら、さりげなく邪魔にならない場所に避けておけば良いだけなのです。
- 誰が置いた
- 何時置いた
- 何のために置いた
などのことにこだわって使う時間は実にもったいないのです。
私達は意外と常識というものにがんじがらめに縛られて、魂の自由を失って身動きできなくなっているのです。
たまには思い切って常識を捨ててみては如何でしょうか。