勝負とは
私達は趣味やスポーツなどの勝負事に於いて勝ち負けがあるのなら勝ちたいもので、勝てば嬉しくて心は高揚し、負ければ悔しくて心は沈み込むものです。
勝つという事
勝つという事は相手よりも優れているであり、相手よりも優れているという優越感に浸ることが出来ますので、優越感が脳を刺激することによって幸福感や満足感に繋がるのです。
スポーツでどうしても勝ちたい試合がある場合には、苦しい練習にも耐えて人並み以上に努力し、遊びたいことや食べたい物も制限し、相手を打ち負かすというイメージトレーニングを繰り返して望む訳ですから、多くの時間と努力を勝つために注いでいるからこそ、勝てばその努力に報われたと思うのです。
勝つことにより他の人が自分を尊敬してくれたり、人気者になって多くの人が近寄ってくることもまた幸福感や満足感に繋がるのです。
負けるという事
勝負に負けるということは「勝者」と「敗者」では敗者になり、勝者の勝ちを認めて自分の負けを認めることになりますから、惨めな事であり、悔しい思いをするのです。
特に絶対に勝つつもりでいたのに負けてしまったり、格下の相手に敗れてしまったりしたら、これまでの自分の努力が全て否定されるようで、とても辛い気持ちになります。
勝った時の気持ちが何時までも続けば、何をしてもうまくいくのですが、負けた時の気持ちを引きずれば、何をやってもうまくいかないということになるのです。
勝負ごとには必ず負ける者が居るということは分かっているのですが、自分が負けたという立場に立った時には他人からも見下げられたりしているようで、他人の眼が気になります。
負けた時の「悔しい」という気持ちに支配されてしまうのです。
喧嘩の時に負けて「土下座しろ」と言われ、土下座することは最大の屈辱であります。
更には土下座した時の頭を靴で踏みつけられる瞬間は征服者に征服されて奴隷になったしるしなのです。
こういった映画やドラマのシーンを見ていたら、少なくとも土下座する敗者の立場には絶対になりたくないと思うのです。
勝負必勝
勝負の勝ち負けは私達の世界では遥かなる昔から存在して、力の強い者が賞賛されて支配者として認められることから、体を鍛えたり武器の使い方を訓練したりしたことが今の相撲やレスリングなどのスポーツのルーツになっているのです。
戦国時代に生き残っていくための秘訣は強い者を数多く集めて強い軍隊を持つことでした。
そして勝負必勝のためには強い神に守ってもらうことが必要で、戦国武将達はこぞって戦勝祈願のための強い神を信仰していたのです。
毘沙門天は勝負必勝の神であり、聖徳太子が物部守屋追討の折に、四天王に戦勝を祈願して、後に四天王寺を建立し、毘沙門天を祀るために信貴山を創設したことや、上杉謙信が勝負必勝を祈願して毘沙門天を祀ったことなどで有名です。
戦国武将の上杉謙信は熱狂的な毘沙門天の信者で、戦いの時には毘沙門天の「毘」の文字が書かれた旗を持って戦い、武田信玄と並んで戦国時代の最強の武将に数えられます。
一説によると70の戦の中で2敗8分とも言われ、正確な勝敗は分かりませんが、負け戦がほとんどなかったそうです。
負けない事
毘沙門天信仰の基本は「勝つこと」よりも「負けないこと」にあります。
勝負に勝てば嬉しくて舞い上がり、調子に乗って人の心を傷つけてしまうこともあるかもしれませんし、相手を見下したり、或いは相手から妬まれたり仕返しされたりするかもしれないのです。
勝負の世界に勝つ負けがあって、喜ぶ人と悔しがる人が出来てしまいますが、勝った人は素直に喜んで負けた人を称え、負けた人は勝った人を称えれば皆が気持ちの良いものです。
たとえ負けたにしても、悔しさをバネにして持戒は必ず勝てるようにすれば良いのです。
勝っても負けても何もこだわらないこと、たとえ負けても気にしない事が「負けない事」なのです。
真の勝者とは勝負にこだわることなく、勝っても負けても物事を楽しめる人です。
毘沙門天はそういう素直な人を応援しているのです。