迷悟一如とは
迷悟一如とは仏教では迷うことが悟りにつながっていることから、迷いも悟りも一体であるということ。
誰もが迷いの人生
自分にとってどちらの道を選べばよいのだろうか、自分が選んだ道は正しかったのだろうか…
など私達の人生には迷いがつきものです。
迷うということは今の状況よりも少しでも良くなりたい、成功したい、幸せになりたいという欲望があるからであり、人としての幸せと言う意味では大切な欲望であり、向上心とも言えます。
迷うことなく何でもすぐに決断出来るような人は何をやってもうまくいく人であり、失敗するようなことがあってもすぐに回復できる人です。
しかしほとんどの人が目の前のことに対して迷っているか、或いは迷いながら進んでいる状態であり、迷いの人生を歩んでいるのが現実です。
仏法に於ける迷い
仏法に於いては究極の目標は悟りであり、この世の悩み・苦しみの世界からの脱出と安楽世界に到達することです。
迷いの原因は欲望であり、その正体は私達の中から出てくる煩悩です。
悟りに至る道のりでは欲望が最大の障礙となり、欲望がある限り決して悟りに到達することはないのです。
この世での苦しみの原因が欲望、煩悩であり、悟りのためには欲望を捨てることから修行が始まるのですが、戒律を守りながら修行に専念しようとしても、次々と勝手に湧いてくる欲望の誘いに対して迷いを断ち切ることが出来ずに、何のために修行しているのか分からなくなってしまいます。
迷いは悟りの始まり
しかしながら悟りというものは迷いと対極のものであり、迷いが無ければ悟りはありません。
迷うということは常に悟りへの第一歩なのです。
人は迷うことで解決の道を探り、解決できたとしたら迷いが消えて悟りに一歩近づくのですが、次に新たな迷いが始まってしまうことを繰り返します。
仏法では迷いを捨てること、無くすことで悟りに到達するとされますが、迷いというものは捨てることですぐに無くなりますが、解決することでもそれなりに時間が掛かりますがやがて無くなるのです。
ということは私達凡人であっても悩み苦しみを一つずつ解決していくことで少しずつ悟りに近付いていると思えば、たとえ蟻の一歩であっても仏道を歩んでいるという事なのです。
どうせ悩み苦しみを解決するなら少しでも良い方法で解決しましょう。
私達は悩み苦しみながらも自分勝手な解決法ではなく、他を思う方法で解決していくことによって魂の向上を目指していけば、やがてそのことが必ず悟りへの道につながっていくはずです。
私達人間が俗世間の中で悩み苦しむことは仕方のない事で、どうにも出来ないことですが、心躍り、魂が浄化される爽やかな解決が出来れば、きっとそれは素晴らしい宝物になるはずです。