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仏教とは
仏教は今から2500年以上も前のインドで難行苦行の果てに悟りを得て如来となった釈迦が開いた宗教です。
釈迦の生涯
お釈迦様と言われることが多い釈迦は古代インドの実在の人物ですが、寺院では仏さまとしてお祀りされ、人として仏になった最初の人なのです。
一国の王子として生まれ、将来は国王として期待され、不自由のない豊かな環境で育てられました。
釈迦の生誕
釈迦は本名をガウタマ・シッダールタ(गौतम सिद्धार्थ Gautama Siddhārtha)と言い、コーサラ国の属国であるシャーキヤ国の国王シュッドーダナを父とし、隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーを母として生まれました。
白い象の夢
釈迦が白象になって胎内に入ってきた夢を見たマーヤーは間もなく懐妊し、出産のための里帰りの旅の途中で産気づき、マーヤーの右脇から生まれてすぐに七歩歩いて右手を上に、そして左手を下にして「天上天下唯我独尊」と述べたという話は有名です。
今でもお釈迦様の生誕祭は甘茶祭り、花祭りなどと呼ばれて4月8日に寺院で行われています。
母の死
出産を控えて里帰りの旅の道中にお釈迦様を生んだ母親のマーヤーは、急遽里帰りを諦めて帰路につきますが、体調を悪くしてしまって釈迦を生んだ7日後には亡くなってしまいます。
シッダールタと名付けられた釈迦は母であるマーヤーの死後はマーヤーの妹であるマハープラージャーパティによって育てられることになります。
王子として
その後は父親であるシュッドーダナの後継ぎとしての期待を背負い、専用の二つの宮殿が設けられ、教育、文芸などのあらゆる教養を身に着け、16歳または19歳で母方の従妹であるヤショーダラーと結婚して一人息子のラーフラを設け、幸せな家庭を築きました。
しかし贅を尽くした宴会が毎日開かれて不自由の無い生活を送っていた釈迦は、そういったことに満足出来ないということに気が付いていたのです。
四門出遊
シッダールタは太子として不自由のない生活を送っていましたが、城という囲まれた世界の中だけでの生活に満足することが出来なかった釈迦はある日城の門から外に出てみます。
東門から外に出て最初に出会ったのは老人で、歳を取って体の自由が利かなくなり、活気を失ってしまい、人は皆いつまでも若くはいられないことを悟ります。
次に南門から外に出て最初に出会ったのは病人で、病気になって苦しそうにしていますが、人は皆病気になればくるしまないといけないことを悟ります。
次に西門から外に出て最初に出会ったのは死者を送る葬儀の列で、周りの人が皆悲しんでいますが、人は皆何時かは必ず死が訪れることを悟ります。
最後に北門から外に出て最初に出会ったのは一人の沙門で、世俗の苦や汚れを離れて修行している沙門の清らかな姿を見て出家の意思を固めました。
出家
王子としての安楽の生活をしながらでも心が満ちることがなかったシッダールタはついに29歳の時に王城を抜け出して出家し時の有名な修行者であるバッカバ仙人の苦行を観察したが、天界の境地では悟りに至らないと判断し次のアーラーラ・カーラーマに師事するも無所有処定の境地に満足せず、更にウッダカラーマ・プッタに師事するも非想非非想処定の境地で満足することは決してなかったのです。
彼らには後継者の座を提示されたにも関わらず全てを断ったシッダールタは、ウルヴェーラーの森に入って6年間様々な難行苦行を行い、最後に水と豆類などで何日も断食行を行うと、身体は骨と皮だけになってしまい、あばら骨が浮き上がるほどの極端な栄養失調状態になったことを憂いた村娘スジャータの乳粥の施しを受けた時に難行苦行の無益さを悟ったのです。
ウルヴェーラーの森での6年間は父のシュッドーダナがシッダールタの体を気遣い、5人の沙門を同行させて常に行動を共にするも、村娘スジャータの乳粥の施しを受けたことで釈迦が堕落したと思った5人の沙門はシッダールタの元を去っていきました。
悟り
35歳になったシッダールタはナイランジャナー川で沐浴した後に村娘のスジャータから乳糜の布施を受けて体力を回復してピッパラ樹の下に坐して瞑想し、ついに悟りを得ることが出来て仏陀になりました。
仏陀は悟りを得た人のことで、輪廻転生の輪を抜け出して如来の位になったので、釈迦如来とも言います。
悟りを得た釈迦はしばらくの間そこに座ったままで悟りの楽しみを味わい、更に場所を変えて悟りの楽しみを味わい続け、悟りの内容を人に伝えるべきかどうかを考え続けたが、やはり難解すぎて人に伝えることは無理と断念したのです。
梵天勧請
このことを知った梵天は釈迦に対して法を説くことを強く勧め、三度の勧請の末にようやく法を説くことを決意して説法の旅に出るのです。
かつての師匠であるアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタに教えを説きに行くも既に死去した後であることを知り、共に苦行を実践した5人の沙門を訪ねて法を説き、やがて悟りを得て五比丘になりました。
法を説く
釈迦はワーラーナシーの長者ヤシャスやカピラヴァストゥのプルナらに法を説き、教団の教主であるウルヴェーラ・カッサパ、ナディー・カッサパ、ガヤー・カッサパの3人に法を説いて高弟の三迦葉になったことで釈迦の教団は大規模なものになりました。
その後はマガダ国の王ビンビサーラも帰依して竹林精舎を寄贈し、やがてシャーリプトラ、マウドゥガリヤーヤナ、倶絺羅、マハー・カッサパなども次々に改宗して教団は膨れ上がり、戒律などの規律も制定されるようになりました。
入滅
その後も釈迦の説法の旅は続き、80歳になった頃、ヴァイシャーリーにて托鉢を行い聖者の教えと神通力について説き、更にはバンダ村 に移り四諦を説き、さらにハッティ村 、アンバ村 、ジャンブ村 、ボーガ市 を経てパーヴァー に着いて戒定慧の三学を説きました。
釈迦はここで鍛冶屋のチュンダに法を説き供養を受けたが激しい腹痛を訴えてからはマッラ国のクシナガラの近く、ヒランニャバッティ河のほとりのサーラ樹の下で入滅しました。
釈迦の入滅を聞きつけて多くの人が訪れて嘆き悲しみ、動物までもが集まってきたそうです。
釈迦が弟子のアーナンダに残した最後の言葉は「アーナンダよ、あなた方のため私によって示し定めた「法と律」が、私の死後は、あなた方の師である」
仏教の広まり
釈迦の開いた悟りの内容は交渉で難解なものでしたが、人間として生を受けた者が六道の輪廻の世界から脱して如来になった道筋を開いた先駆者として、説いた法は世界中に広まっていき、釈迦の教えによって救われたいという人達の光明となったのです。
仏教としての教えは自らが乗る船を出して悟りの世界に向かう小乗仏教と多くの人を乗せて悟りの世界に向かおうとする大乗仏教という大きな二つの流れになりました。
小乗仏教
小乗仏教とはサンスクリット語でヒーナヤーナ(Hīnayāna)と言い、劣った(ヒーナ)乗り物(ヤーナ)の意味で、大乗仏教からの見下した表現ですが、個人の解脱のための教えです。
釈迦の開いた出家して仏教は僧の集団に入団し、戒律を守りながら修行して悟りを目指しましたが、一人一人が修行の結果として悟りを目指すという方法は釈迦の開いた道を歩むという意味では、一人でも多くの人が悟りを得るための方法なのですが、この方法では出家者しか救われないということになってしまいます。
悟りを得るという事が難解な方法であるが故に、まず最初に出家者が仏になるのといのが、確実に仏になるための有効な方法ではありますが、在家の者が救われることはありません。
大乗仏教
大乗仏教とはサンスクリット語でマハーヤーナ(mahā-yāna)と言い、「偉大なる教え」を意味し、インドで西暦紀元後に興った新しい仏教の流れで、遍く民衆を救済しようとする仏教の思想です。
小乗仏教が出家者が一人で悟りの世界に行く船に乗るという方法であるのに対して、出家者はもちろんのこと在家者でも悟りの船に乗ることが出来ることから、仏教が広く世界に伝わっていくための大きなきっかけになりました。
釈迦の説く悟りの内容が難解だったが故に悟りへの道のりを諦めていた人であっても救われるという事は、仏教を理解出来ない人や実践できない人たちにとって大きな救いとなったのです。