小乗仏教とは

小乗仏教のイラスト

小乗仏教とはサンスクリット語でヒーナヤーナ(Hīnayāna)と言い、劣った(ヒーナ)乗り物(ヤーナ)の意味で、大乗仏教からの見下した表現ですが、個人の解脱のための教えです。

大乗仏教がきっかけ

釈迦入滅後の仏教教団は釈迦の法を受け継ぎ、次第に体系づけられた教義となり、釈迦の入滅以来の原始教団が分裂を繰り返して部派仏教と言われる教団になり、王族階級や長者などの外護を得て発展を遂げていきましたが、戒律にばかり拘って現状を維持しようとする保守派の上座部(じょうざぶ)に対して改革派と言われる大衆部(だいしゅぶ)が現れて教団は二分することになり、その後も大衆部は分裂を続け、20を超える部派になりました。

部派仏教は釈迦の教えを忠実に守り、自らが悟りを開いて「阿羅漢」(あらかん)になることを目指していたのですが、小乗仏教と言われる所以は、悟りと言う小さな船に自分一人だけが乗り込もうとしていることが批判され、悟りの大きな船に皆が乗り込まないといけないという大乗仏教の思想が出てきたのです。

しかし小乗仏教と言う団体が最初からあったわけではなく、大乗仏教が起こってから後、自らの優位性を示すために批判的な意味込めて、それまでにあった部派仏教のことを小乗仏教と呼んだのです。

仏教の本来の教え

釈迦の説いた本来の教えは、この世を四苦八苦に満ちた苦しみの世界だと捉え、苦しみから脱出して永遠の安楽の世界にたどり着くには何もかも捨てて出家して戒律を守りながら修行をし、悟りを得て解脱することです。

しかし悟りを目指した修行は非常に難解で困難で、出家者と言えども簡単に到達できないことや、出家者を支える在家の人達も救われたいという気持ちから、誰もが皆救われるような方法としての大乗仏教が出てきたのは自然な流れなのです。

しかしながら衆生済度の思想がある大乗仏教で全ての人が救われているかと言えば、必ずしもそうではなくて、我が国の仏教も大乗仏教ではありますが、本来の仏教から遠ざかってしまい、僧侶の堕落、信徒の離脱などの問題が顕著になっているのです。

小乗仏教は正統な仏教である

釈迦の成道

釈迦のたどり着いた悟りというレベルに到達することは非常に困難なことです。

実在の人物として悟りを得た釈迦はこの世に生きていた期間だけで悟りを得たのではないとされ、前世には動物などを含めた果てしない輪廻転生の間に修行を続けたという過去の積み重ねの結果としてやっと今生での悟りにつながったとされます。

ある意味釈迦は、悟りまであと一歩のところまで前世で修行しておきながら、生まれるべくして生まれ、そして成道したとも言えるのです。

永遠に近い果てしない時間をかけて修行をした結果として悟りを得たのであれば、私達凡人が悟りを目指しても無理だという事が分かります。

悟りというものがそれだけ困難であるのですから、そもそも簡単に悟りを得るような方法なんてある訳ありません。

しかしそうは言ってもやはり、釈迦が示してくれた悟りへの道が残されているのですから、その道をたどっていけは必ずや悟りにたどり着くはずなのです。

自らが歩んでいかないと行けない世界は自分で行くしかないのです。

そのことに一人でも多くの人が気が付くしかないのです。

魂の救済

私達の魂は釈迦の魂同様に永遠の旅をしているのなら、生きている間に魂の向上をすれば良いのであって、決して堕とすようなことをしてはいけません。

たとえ悟りは無理だと諦めても、魂の向上だけは諦めてはいけないのです。

それが自分のためでもあり、周囲近隣のためでもあるのです。

悟りへの乗り物はどんな乗り物でもよい、存在する物にはどんな物であれ理由があるはずで、役に立たない物など無いのです。

たとえ世の中では不要の物だとしても、それが不要だという事が分かるためには是非とも必要なのです。

私達は魂の向上を目指しましょう、それが私達に与えられた使命なのですから。