海上安全とは

散骨供養

海上安全とは船の運航や海のレジャーなどが事故やトラブル無く安心して利用出来ること。

海は危険がいっぱい

津波のイラスト

海の散骨で時々船を出すことがありますが、波風の無い穏やかな日には船の揺れも少なく、沖合に出ますと都会の喧騒を離れて大自然を感じる空間が広がり、あらゆる生命を包み込んでは再生させる海は生命の揺りかごでもあり、心の故郷でもあるのです。

しかし平穏なひと時から急に風が吹き出して真っ黒い雲に覆われて雷雨となり海が荒れるようなこともあり、ゲリラ豪雨のような天気の豹変に遭遇すると、陸上の車の中では静まるまで車内で待てばよいのですが、船の場合には周囲が全く見えなくなり雨と波を被って大揺れとなりますので恐怖を感じてしまいます。

また陸上の車のエンジンが故障したらなるべく安全な場所に車を停めてロードサービスを呼べば何とかなりますが、海上の船のエンジンが故障したら、その瞬間からどんどん流されていってしまいます。

近年では少々の沖合に出ても携帯電話が繋がりますので救助を呼べば何とかなりますが、携帯電話の無い時代には機関停止で沖合に流されますと、すれ違う船があるまで流され続けるしかなかったのです。

もしすれ違う船も無ければ、或いはすれ違っても気が付いてくれなかったら、とても恐ろしいことです。

また陸上の道路では落下物や障害物は見えていますので、避けて通れば良いのですが、船の場合には海底の障害物は見えませんので衝突の危険がありますし、ロープや木材が浮いているのに気が付かずにスクリューに巻き込んだり衝突したりすることがあるという意味では海は危険がいっぱいなのです。

地震の後の津波の恐さは筆舌に尽くし難く、東日本大震災で津波が襲ってくる様子はテレビで全国に流されましたが、家も車も道路も田畑も何もかもが一瞬にして呑み込まれ、流されていく様はまるで怒り狂った悪魔の仕業のようでした。

漁師さんは信心深い

神頼みのイラスト

昔からよくある話として漁師さんが漁に出たまま帰ってこない、人が乗っていない漁船が漂流している、まき網を巻き上げるウインチに挟まれた、横波を受けて転覆した、などの事故が漁師にはつきものです。

海には魔物が棲んでいると言われて恐れられ、海の守り神に護ってもらうべく、家では毎朝神棚に礼拝し、船の中にも神棚や御社を祀って礼拝してから漁に出るのは、神の守護が必要だという経験に基づく習慣なのです。

素潜りで貝や海藻をとるような仕事であっても岩場で怪我をしたり、潜ったまま上がってこないような事故も多々ありますので、生死にかかわるような危険を抱えているということから、漁師さんは信心深くなるのです。

人の意識と神の守護

僧侶の説明のイラスト

工事現場で見られる標語の「安全第一」は、何よりも安全を第一に考えましょうという取り組みで、怪我や事故があったら取り返しがつかないことになるからこそ、人の命は生産性や効率などよりも大切だということなのです。

人の命が何よりも大切だという認識のもとに安全な仕事、楽しいレジャーがあり、更には神の守護があれば心の安心につながるのです。

私達の先祖は自然の中の至る所に神が宿るというアニミズムの思想を持ち、山川草木悉皆成仏、ありとあらゆるものが仏になると信じてきました。

自然の中で自然の恵みを受けながら暮らす生活では、自然の恵みに感謝しつつ、自然が荒れ狂うことが無いようにと神々に祈りを捧げるのです。

漁師が大漁と安全を願うことは今も昔も同じです。

癒しの海

須弥山の海

太古の時代には地球は平面で海は無限に広がるものと考えられていましたが、人は大きなものに対面すると心まで寛大になり、日常のストレスを忘れさせてくれます。

波の音を聞いていますと心が癒されるのは、母親の胎内に居る時の記憶が甦るからであり、それは生命の創生のリズムなのです。

癒しの海は私達のレジャーの場でもあり、様々なレジャーがありますが、安全で安心して楽しむことが出来るように神様に守ってもらうのも海上安全なのです。

広大な海を目の前にして何もかも忘れ、頭の中を空っぽにすることは仏教修行につながります。

私達の頭の中には案外どうでもいいような情報ばかりが詰まっているもので、そういったことに時間を使うのは時間の無駄かもしれません、忘れてしまえば心が楽になりますよ。