弘法(に)も筆の誤りとは
弘法大師のような書の達人であっても字を間違えることがあるということから、その道の達人であっても失敗することがあるという意味。
由来
我が国で書道史上で能書の最も優れた三人は「三筆」と呼ばれ、平安時代初期の空海、嵯峨天皇、橘逸勢のことを指しますが、今昔物語巻十一の九話によると弘法大師が嵯峨天皇の勅命によって諸門の額を書くことになったが、応天門の額を打ち付けてから見てみると、「応」の字の最初の点が無いことに気付き、驚いた弘法大師が筆を投げて点を打ったという話に依ります。
諺の意味
弘法大師のような書の達人なら決して失敗することがないし、何事も完璧にこなすと思われがちですが、人間である以上、実際には失敗することもあるということの喩えです。
失敗しない人はいないということでもあり、人である以上失敗はつきものなのですが、実は失敗した時の対応の仕方の大切さを説いているのです。
失敗した時の対応
弘法大師による応天門の額の逸話では、「応」の文字の点が抜けていて、修正可能な失敗ですから、普通に考えれば額を外して点を付け足し、また掛け直せば良いのですが、弘法大師の凄い所は、墨の付いた筆を額に向かって投げて肝心な所に命中させたことです。
もし投げた筆の軌跡が額からそれてしまい、門を汚して却ってまずい結果になったのですから、これこそ絶対に失敗の許されない曲芸とも言える技であり、そういう対応が出来たからこそ逸話として後世に残るのです。
応天門の額は相当に高い所に掛けられていますので、およその高さとして10メートルはあろうかという所に掛けられている額をめがけて筆を投げるのですから、現代の野球選手であっても困難なことを、一瞬でこなした弘法大師でも失敗することがあるのです。
失敗は成功の基
弘法大姉はちょっとした失敗をさらに大きな成功につなげたことで「弘法も筆の誤り」という諺が後世に残りましたが、失敗というものは成功につながる良いチャンスだということを私達に教えて下さっているのです。
私達は何かにつまづいたり失敗したりすると落ち込んでしまい、挑戦する気持ちや前向きな気持ちを失ってしまい、マイナスの気持ちを何時までも引きずってしまいますが、失敗してもその失敗をチャンスだと捉えて成功につなげていくことこそが、この諺の真意ではないでしょうか。