戒壇とは
戒壇とは仏教の戒律を授けるための場所のこと。
戒壇の由来
我が国に正式に仏教が伝わったのは538年もしくは552年と言われていますが、当時の仏教の戒律は不完全なものであり、出家者が免税されていたこともあって、税逃れのために得度を受けない私度僧と言われる出家者が多く、全く修行しないような堕落した僧が多く居たのです。
そのために唐より鑑真を招いて戒律が伝えられ、この戒律を守ることが出来る者だけが僧として認められることになったのです。
しかし鑑真が日本に到着するためには5回の失敗を繰り返し、6回目の渡海にしてようやくたどり着くことが出来ましたが、その間の苦労で両目が失明してしまったのです。
鑑真
鑑真は中国の南山律宗の継承者として4万人以上の人に授戒を行ったと言われています。
鑑真が揚州の大明寺の住職をしていた時に、日本から唐に渡った僧の栄叡、普照らが訪れて、授戒の出来る僧10人を日本に派遣して欲しいとの要請に対して名乗り出る弟子が居なかったために自ら渡日することを決意して、そのことを聞いた弟子達21人も随行して5回も試みた日本への渡海は悉く失敗して、6回目の渡海で漸く日本にたどり着くことが出来ましたが、度重なる苦労のために両目が失明していました。
最初の戒壇
鑑真は天平勝宝6年(754)には平城京到着して聖武上皇の歓迎を受けて東大寺に戒壇院を作り、聖武上皇をはじめとして430人に授戒を行ったのが最初の戒壇であり、その後戒壇院が建立されました。
東大寺の戒壇院に引き続き、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇を築かれて、これらの三つの戒壇を天下の三戒壇と呼ばれていました。
延暦寺の戒壇
天台宗の最澄は菩薩戒の受戒で比丘になれるとする大乗戒壇の設立に尽力し朝廷に何度も要請しますが、既成仏教である南都諸宗の反感を買い、最澄在世の間に実現することはありませんでした。
最澄没後の822年になって延暦寺に対して戒壇の勅許が下されたのです。
しかしながら中国の仏教界では延暦寺の大乗戒壇を正式な戒壇と認めることは無く、また官立の寺院ではない寺院での寺院に戒壇が認められたことに反発する南都の寺院の反発によって両者の対立は長く続きます。
真言律宗
鎌倉時代の真言宗の僧である叡尊(えいそん)は三戒壇や比叡山の戒壇で受戒した僧達の堕落ぶりを憂い、鑑真が伝えた戒律を学んで真言律宗を起こしました。