引導を渡すとは
「引導を渡す」とは叶いもしないような夢を持っている人に最終的な宣告をして諦めさせることですが、葬儀の時に僧侶が死者に対して、生きていることを諦めさせ、悟りを得るように説く作法の「引導」から来ており、死者を引っ張って導くための作法です。
引導について
引導とは引っ張り導くことであります。
死者は亡くなった瞬間からは魂が肉体から離れて大変に不安定な状態になり、自分の状態が理解できない魂に対して迷わぬように導くことを引導と言います。
密教の信仰が今でも民衆の中に根付いているチベットでは死者が出ますとラマ僧が来て、四十九日の間毎日死者の書と言われる経典を読んで死者の魂を解脱、もしくは三悪趣に堕ちないように導くそうです。
真言宗では死者が出たらすぐに死者の枕元に駆けつけて枕経と言う読経をして使者を導く作法を施します。
引導を渡された
「引導を渡された」という言い方では、世の中ではいろんな場面で引導を渡されて、必ずしも僧侶が渡すのではありません。
そういった使い方としては
- 会社で役に立たないからと引導を渡された
- 医者からもう治療法が無いと引導を渡された
などですが、諦めた、諦められたということであり、仏教の悟りの基本が「諦め」にあるのですから、諦めは悟りでもあるのですが、一般的な使われ方としては見込みがないということで匙を投げられたという意味になります。
引導作法とは
引導作法とは葬儀の時に僧侶が死者に対して、亡くなったことを悟らせて死後の世界に導くための作法です。
亡くなったことを悟らせる
人が亡くなった時の状態は、ちょうど頭を固いもので殴られて失神したような状態であると言われています。
やがては失神状態から目が覚めるのですが、自分の周りには何故かしら泣き叫ぶ人家族が居て、自分のことを呼んでいるけれど、自分がそれに応えようとして言葉を発しても相手には全く聞こえていないのです。
果たしてどういう理由でそうなっているのか分からない、自分の周りの人達が自分のことを呼んだり叫んだり泣いたりすることは分かるのですが、こちらの存在が分かってもらえないのです。
やがて時間の経過と共に自分が亡くなっていて、魂が体から離れてしまったことに気が付くのは随分と時間が経ってからと言われています。
真言宗の僧侶はそこで死者に対して自分が亡くなったと悟らせるのです。
葬儀の次第の中には亡くなった人に対しての名前や年齢、没年月日、戒名などを読み上げて知らせ、生前中の業績や職業、趣味などの功績を称え、本人が亡くなって死後の世界に旅立つ儀式を皆で行っていて、今後に於いて迷うことの無いように本尊様の加護が得られるように願っていますよ、と本人の魂に呼び掛けているのです。
死を認めさせる
人は誰でも「まだ生きていたい」という根本的な欲望があるもので、これは生命に対する欲望であり、生まれながらにして誰もが持っている欲望です。
病気もせずにコロッと死にたい、もういつ死んでも構わない、と言っているような人でもいざ本当に死ぬとなると嫌だという気持ちになるそうです。
死ぬことが嫌だという理由には二つあって、まずはそれは死ぬことが怖いということです。
死んだ後の世界は極楽浄土かもしれませんが、闇の世界かもしれませんし、恐ろしい世界かもしれません。
地図を持たずに闇の世界に飛び込むようなものなのです。
そしてもう一つの理由としては生き物としての潜在的な反応によります。
誰でも水を張った洗面器に顔を漬けて、どれくらい我慢出来るか試したことがあると思いますが、限界まで我慢したら思わず顔を上げて息を吸うことは、誰もが同じです。
息が出来なくなったら苦しいのであって、生き物としては潜在的に息をし続けようとするのですから、死ぬということは息が出来なくなる苦しみを乗り越えないければいけません。
生き物としては、寝ていても覚めていても常に一分一秒でも長く生きようとする働きが備わっているのですから、その働きを停められてしまうことは大変な苦痛なのです。
死にたくないという意識がある以上、出来れば生き返りたい、元の体に戻りたいという強い願望との戦いになるのです。
死を決して認めようとしない死者に対して、もう決して戻ることが出来ないことを説き、引導作法によって死を認めさせる、そういう役割があるのです。
死者を導く
仏教には様々な宗派があって死後の世界観が異なりますので、死後の世界の浄土観も違えば引導作法も違いますし、浄土真宗では阿弥陀如来に既に救われているのだから引導作法などしないとも説かれます。
しかし死者を送る葬送の義はいずれの宗派も行いますから、葬儀では僧侶が導師として死者を導くという大切な役割を果たしているのです。
肉体と魂
ところで僧侶は亡き人に対して引導作法をしているのは、肉体に対してでしょうか、それとも魂に対してでしょうか。
肉体は滅びるものであり、自然に還るものであるから、死んで魂が離れてしまえば肉体は物質になりますので、荼毘に付されて残った骨は死者の抜け殻なので、散骨して自然に還すことは理に適っているのですが、死者の抜け殻である肉体が変化する度に死者にその旨を説くことによって、死者の肉体に対する執着を諦めさせるのです。
たとえ病気や老体であっても長い人生を共に過ごした自分の体から離れていくことはとても辛いことであり、人生最後の執着になるのですから、肉体は必ず滅びるものであることを、生きている内に悟っておけば、死後に慌てることなく穏やかで居られるのです。