見返りとは
見返りとは自分が相手に何かしたことに対して相手が何かを返すことです。
見返りの由来
見返りには「振り向いて後ろを見ること」という意味があり、何かが気になって後ろを見る、或いは誰かに呼ばれて後ろを見ることなのです。
見返るのは「誰かに呼ばれた」という行為に対して「振り返る」ということで反応した訳であって、「呼んだ」という事に対しての「振り返る」ことが返ってきた行動なのです。
見返りには「呼べば必ず振り返る」という行動が当たり前だという意識が深く関わっています。
見返りの例
私達が見返りとして当然だと思っていることは実にたくさんあります
- 近所の人に野菜などを頂いたらお返しの物を差し上げるべきだ
- 電車内で席を譲ってもらったら相手にお礼を言うべきだ
- 仕事を手伝ってもらったらお礼をするべきだ
- 挨拶の言葉を掛けられたら挨拶を返すべきだ
などの見返りは誰もが常識的に行うものだと思っているのが私達日本人の特徴で、昔から日本人は礼儀正しく情に厚いと言われているのです。
何かをしてもらったら相応の見返りをすることは善い事の場合にはお互いにとても気持ちの良いことですが、自分に不利益なことをされた時の「倍返し」という習慣があるのも事実です。
見返りを期待
見返りと言うものが当然のことのように行われると、私達は相手に何かして差し上げる時に案外、見返りを期待していることに気か付きます。
上の例でいきますと「仕事を手伝ってあげたのだからお礼ぐらいするべきでしょ」と言う気持ちのことで、「仕事を手伝った」という行為の見返りとしての「お礼」を当然のごとく期待しているのです。
家庭の中では子供に対して「苦労して学校に行かせているのだから早く親孝行しなさい」とか夫婦間でも「俺が稼いでいるのだから言うことを聞け」などの見返りを当然のごとく期待しているのです。
期待通りの見返りが無かったら喧嘩や不仲の原因になりますし、最初から相手に何もしてあげないという意地悪な発想にもなってしまうのです。
見返りは期待するものですか?
世の中に見返りを期待する人ばかりでしたら、見返りのために何かをする人ばかりになってしまいます。
会社で仕事をした結果としての給与は報酬として支払われるものであり、報酬を得るために仕事をしているのですが、あくまでも「報酬」であって、ここで言うところの「見返り」ではありません。
見返りは気持ちの部分での金品であり、お互いに気持ちよく付き合うための見返りですから、「ありがとう」の気持ちを表現するためのさりげない見返りはとても美しいのですが、見返りは期待するものではないのです。
「期待すれば当てが外れる」のは世の中の原理です。
天の世界の見返り
毘沙門天の居られる天の世界では、相手の幸せを願うことだけが実践される世界ですから、相手の幸せのために尽くしますが、「一切の見返りを期待しない」という大きな特徴があります。
相手に尽くすだけで満足するのです。
「これだけすれば良いでしょう」「良くやった」ということで、相手の幸せを願ってのことですから、相手が幸せになればそれで良いのです。
挨拶にしてもお礼にしても見返りと言う概念ではなくて相手の幸せのために行っているのです。
菩薩の見返り
如来を目指して日々修行している菩薩も然り、困っている衆生が救われたらそれで良いのです。
衆生が救われることが自らの救いになるのですから。
このように大きな願いを持って居られる方は皆、見返りを期待しません。
大きな心で広い心を持っていれば、見返りなんて言う小さなものにこだわる必要は無いのです。
見返りは期待するべからず
天の心、菩薩の心で世の中を見てみれば、見返りなんて小さなもので、見返りを期待する行動自体が、とても恥ずかしいことに気付きます。
心を大きく持てば、見返りと言う形のあるものではなくて、形の無い功徳というものが積み重ねられていくことに気が付くはずなのです。
功徳を積むことに対しては何の現実的な見返りもありませんが、必ずや自分自身の宝物になるのですから、自分自身の魂の向上のために、そして周囲の人の魂の向上のために尽くしましょう。
見返りは期待するべからず、見返りが無いからと怒るようでは心の狭い人です。
見返りが無いから何もしてあげない、なんていうケチな人は誰からも相手にされません。
見返りが無くてもニコニコしていることが出来る人は、心穏やかな人であり、周囲を平和にすることの出来る人なのです。