無明とは
無明とは真理の明かりが無いことで、真理に暗い、悟りから遠ざかった状態のこと。
真理は明るく無明は暗い
真理とは何時の時代でも何処に行っても誰もが認める正しいことであり、釈迦の悟りの内容は釈迦在世当時から2千5百年以上を経た現代に於いても変わらぬ真理として伝え続けられているのです。
そして真理は明るいが故に闇の世界に光を灯し、真実の姿を見せてくれるので、死後の暗闇の世界でも明るく行き先を照らしてくれるのです。
私達は真理を知らなければ暗闇の世界に居るのと同じことで、自分が何処に居るのかも分からず、何をすれば良いのか、そして何処に進めば良いかも分からないのです。
無明の闇
外からの光が差し込むことの無い地下室で仕事をしていて突然停電したら、真っ暗闇になってしまいますが、そういう時にはまず何から始めたら良いのか困ってしまいます。
停電が近隣全体の停電なら、待っていればそのうち明かりが点くでしょうが、建物内のブレーカーが落ちた停電なら誰かがブレーカーを上げなければいけません。
ブレーカーを上げるためにと、明かりが無い状態での移動は全くの手探りで自分の居場所を確認しながらの移動になりますので何かにぶつかるかもしれませんし、足を踏み外すかもしれない不安を感じながらの移動になり、それは真実の世界が見えない状態、即ち無明の闇の世界なのです。
光が無ければ私達の世界は全て闇の世界になってしまいます。
闇の世界は恐怖と不安の世界であり、真実の見えない世界です。
光が無ければ私達は生きていくことが出来ません。
太陽の存在、大日如来の存在は真実を照らす真理の存在なのです。
無明を知る
私達は学校でたくさんの知識を学び、勉強することによって多くの知識を得ることが出来ますが、それはこの世を生きていくための知識であり、頭脳に蓄える情報であり、死んでしまえば終わりのものですから、魂を向上させる、心を磨く、永遠不滅の幸せにつながる智慧でないことを理解しなければいけません。
今の時代は一人一台のスマホを持ってSNSでは日々多くの情報が飛び交い、分からないことがあればすぐに調べることが出来る環境にありながら、実はどうでもいいような自己満足の情報で自分だけが利益したり、人の不幸を喜んだりで、心が貧乏になっているのです。
何が正しく何が間違っているのかという判断は真実を知る人が見ればすぐに分かることで、私達が日々の生活の中で迷いが多いのは、真実が分からない状態、つまり無明の状態なのです。
仏教はまずは自分が正しい真実を知らないこと、無明の状態であることを知ることから始まるのです。
人間の苦しみの原因を十二に分けてそれらが連鎖して延々と循環を繰り返しているとされる十二因縁の最初に無明があるのは、私達が本能のままに生きていて、無智の状態であることに気が付く必要があるからなのです。
光の有難さ
私達が暮らしている地球の外には広大な宇宙が広がっていますが、そのほとんどが暗闇の世界であり、死後の世界も暗闇の世界であると言われることから、生物を育み、死者の行き先を照らす光明は神としての存在であり、真実を照らし出し、更にはメッセージを発し続けているのが大日如来の姿なのです。
昼には太陽が照らしてくれて周囲は明るく、夜には電気を付ければ明るいのが当たり前の生活を送っている私達ですが、昼も夜も明るくて当たり前だと思っているからこそ真実というものが見えなくなってしまっています。
明るいこと、そして明るい光は正しい真実の姿ですが、感謝する心が無ければ正しい真実を写し出すことはなく、ただ単に明るくて便利というだけで終わってしまうのです。
太陽の光が明るいことによって私達がどれだけ恩恵を受けているのかを知る必要があります。
それも無償で受け続けているのですから、タダで当たり前だと思うことなく、何と有難い、素晴らしい、勿体ないと心の底から思えば新たにいろんな真実の姿が見えてくるのです。