満足とは
満足とは物事が思い通りに進み、心が満ち足りている様子のこと。
余は満足じゃ
時代劇での殿様が目の前の豪華な料理に舌鼓を打ち、美女のお酌に対して「世は満足じゃ、苦しゅうない、もっと近う寄れ」というセリフは随分と前に時代劇やコント劇場がお茶の間のテレビのゴールデンタイムで放送されていた中で視聴した記憶があります。
こういう場合の満足はまさにこの世の極楽、心が満ち足りた状態なのです。
満足の正体
満足の満ち足りた状態とは欲望が満たされた状態のことで、人は誰でも欲望があるからその欲望を満たそうとするのであり、欲望が満たされた時に得られる満足感というものはある意味快感で、至福感でもあるのです。
人である以上生きている間は常に欲望が湧き続け、その欲望を満たすために奔走しているのが人間としての本能なのであり、たとえ目の前の欲望が満たされて至福感を味わった所でその至福感は幻のように消え去って、また次なる至福感を追い求めているのです。
満たされても満たされても次々と湧いてくるのが欲望であり、満たされた時点で満足しても何時までも続くことなく消え去ってしまうのが満足の正体です。
満足の度合い
人によって欲望に違いがあるように、満足の度合いに違いがあって、小さな欲望で満足出来る人と大きな欲望でしか満足が得られない人が世の中に存在します。
しかし小さな欲望で満足する人、大きな欲望で満足する人のどちらの満足も消え去ってしまうことに変わりありません。
小さな欲望を満足することを繰り返せば大きな欲望に自然と繋がるようになっているのですから、世界中の人が皆持っている欲望に対しての満足の形は様々ですが、誰もが追い求めていることは事実なのです。
足ることを知る
満足が消え去ってしまうのは今味わった満足で心が満ち足りることなく、更に大きい満足を求めているからであり、今の満足よりももっと大きい満足が味わえるのではないかという期待感が次なる欲望の始まりなのです。
もっと大きい満足があるのなら、味わってみないと損だ!
友人が楽しそうに幸せそうにしているのはもっと大きい満足の境地に居るからに決まっている!
などの気持ちがある限り居ても立っても居られなくなるのです。
真の満足とは
仏教の開祖である釈迦の悟りへの旅の原点は「人間世界が苦しみに満ちている世界」であることを知り、更に苦しみの原因が欲望にあって、その欲望は満足しても満足しても尽きることなく次々と湧き出でて、決して満足することが出来ないことを悟ったのです。
釈迦が難行苦行を繰り返して追い求めた悟りの世界は真の意味で満ち足りた世界であり、永遠に消えることの無い満足が得られる世界だったのです。
その満足とは欲望で満たされる満足ではなく、欲望を無くした世界、心の平安に満ちた世界での満足であり、最高の幸せでもありますから、それ以上のものを求める必要など無いのです。
それは極楽浄土或いは如来の浄土の世界のことであり、私達凡人にとって雲の上の存在ですから、真の意味での満足など手が届かないのですが、私達が今すぐに出来ることは「小欲知足」であり、「小さな欲で満足することを知る」ことなのです。
小さな喜びを出来るだけ大きく喜び、それで満足し、出来るだけ長く満足し、それ以上のものは求めないことです。
私は仕事上、お焚き上げ供養を通して亡くなった方の遺品を片付ける現場にお伺いすることがよくありますが、本当に大切な思い出の品物はお焚き上げ供養で亡き人の元に届けるにしても、人は死んでしまえば大抵の物はあっさりと捨てられてしまうのです。
生きている間は小さな満足のために必死になって買い求めたり作ったりした物でも捨てられるのですから、所詮人間の満足などあっさりと消え去ってしまうものにこだわり続け、何時までも追い求め続けているような哀れな存在なのです。
「小欲知足」あなたも実践してみませんか。
大切な仏教の修行です。