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発心とは
発心(ほっしん)とは一般的には何かを始めようと決心することで、仏教的には悟りを求める菩提心を起こすという意味の仏教用語です。
菩提心とは
菩提心の菩提とはサンスクリット語でbodhi(ボーディ)の音写であり、「悟り」を意味する言葉です。
菩提心は中国天台宗の智顗は「摩訶止観」の中で四弘誓願(しぐせいがん)を起こすことであると説き、四弘誓願とは全ての菩薩に共通する願いのことであり
- 衆生無辺誓願度…この世に生を享(う)けたものは数限りなくいるが、一人残らず救うことを誓う
- 煩悩無量誓願断…煩悩は無数にあるが、その全てを断ち切ることを誓う
- 法門無尽誓願知…仏の教えは果てしなく深く広いが、その全てを知ることを誓う
- 無上仏道誓願成…この上ない悟りに必ず到達することを誓う
の四つの誓いのことです。
まずは誓うこと
四弘誓願の一つ一つは如来(仏)になるために修行している菩薩の誓いであり、この誓いを全て実現するまで決して仏にならないとされるので、阿弥陀如来の前身である宝蔵菩薩が既に阿弥陀如来になっているのだから、私達は既に救われているのだというのが浄土教の基本なのです。
但し宝蔵菩薩の立てた誓いは四弘誓願ではなくて自ら立てた「四十八願」であり、浄土教の基本となっているのが四十八願の中の第十八願で「私が仏になるとき、全ての人々が心から信じて、私の国に生まれたいと願い、十回でも念仏して、もし私の国に生まれることができないなら、私は決してさとりを開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」これにより只ひたすらに念仏すれば救われると説くのです。
こはもう、他の教義など放っておいて只ひたすらに阿弥陀如来にすがれば必ず救ってくると言う信仰ですから、私達が誰でも浄土に行くことが出来る簡単な方法である念仏を説いたことは画期的なことだったのです。
四十八願にしてもどれも難しい誓いばかりなのに、たった四つしか無い四弘誓願の一つ一つの誓いでも私達にとって実現できそうにないことを誓えと言われても誰もが尻込みするかもしれません。
しかし仏になるということは実に大変な事であり、釈迦が実在する人物として初めて仏になって以来、仏になる者が続かないことからも四弘誓願は難しい誓いということなのです。
四弘誓願は菩薩としての誓いで、私達凡人の誓いではありませんが、今でも菩薩の方々が私達凡人を一人残らず救うように修行されているのですから、私達は菩薩の努力が少しでも報われるように心掛けたいものです。
難しいからと最初から諦めるのではなく、確かに誰が見ても素晴らしいことなのだからと誓うのが四弘誓願であって、とにかく誓うことから私達も菩薩と共に始めてみるのです。
発心の道場とは
四国八十八箇所霊場とは四国にある弘法大師空海ゆかりの八十八の寺院を順番に回ることで旅の気分を楽しみながら自らの修行として車や徒歩、自転車などで巡礼する霊場で、八十八の霊場は県別に「発心の道場」「修行の道場」「菩提の道場」「涅槃の道場」に分けられて、巡礼しながら宗教的な境地を高めていくようになっています。
「発心の道場」とは徳島県にある1~23番の寺院です。
発心の道場とは仏道に入門して仏教に帰依し、仏の道を歩むという心を持ち、俗世間の迷いを断って白い衣に身を包み、身と心を清めて新たに歩き出すという道場のことです。
四国八十八箇所霊場は昔から歩いていくことに意義があって、仏教の修行の要素が詰まっている霊場であり、仏になるにはまず「発心」して「修行」をし「菩提」を得て「涅槃」に至ることを肌で感じることが出来るのです。
四弘誓願の実践
四弘誓願の中でも自分に出来ることは実践しましょう。
衆生無辺誓願度
正しい解釈は…この世に生を享(う)けたものは数限りなくいるが、一人残らず救うことを誓う
まずは他の誰でもない、自分が救われるように致しましょう。
そして身近な人で困っている人を助けて差し上げるのです。
煩悩無量誓願断
正しい解釈は…煩悩は無数にあるが、その全てを断ち切ることを誓う
凡人として煩悩を全て捨てろと言われたら生き甲斐が無くなってしまいます。
他人を苦しめているような煩悩は捨てましょう。
自分一人だけが楽しむ自己満足の煩悩は捨てましょう。
魂の成長に不要な時間つぶしのどうでも良い煩悩は捨てましょう。
法門無尽誓願知
正しい解釈は…仏の教えは果てしなく深く広いが、その全てを知ることを誓う
少しでもいいから正しい仏法を学びましょう。
仏の教えを実践できる人になりましょう。
無上仏道誓願成
正しい解釈は…この上ない悟りに必ず到達することを誓う
悪い人ばかりがはびこる世の中ですが、周囲の影響を受けて自分の心まで乱すのは止めましょう。
正しい悟りに到達するのは遠いですが、少しでも近づくように努力しましょう。