勝負必勝とは

毘沙門天-勝負必勝

勝つか負けるか、という事が勝負だとすれば、私達が生きている間には受験、試験、など様々な勝負の機会があり、娯楽の世界でも賭け事は勝負の世界で、勝てば嬉しく、負ければ悔しい結果になります。

毘沙門天は勝負必勝の神ですが、その理由について。

競争世界

大学受験では希望の大学に合格して希望に満ちた大学生活が始まる人がいれば、希望の大学に不合格で辛く苦しい浪人生活が始まる人もいます。

入社試験では希望の会社に合格して社会人の第一歩を踏み出す人がいれば、希望の会社に不合格でフリーターになる人もいます。

国家試験に一発で合格して資格を生かして社会で活躍する人がいれば、何年受験しても合格しない人もいます。

この世の中は競争社会ですから、勝ち負けの差は社会的地位や収入の差に顕著に現れます。

勝利者は自信に満ちた表情で贅沢な暮らしを手に入れて、多くの人に羨望の眼で見られて輝き、敗北者は暗い表情で一人ぼっちで貧乏で寂しい生活をしますよ、というのが一般的な価値観なのです。

勝負しないという選択肢

今の時代はインターネットの普及によって、多様な考え方や生き方の人達が社会の中で認められ、そして活躍出来る時代になってきました。

不登校や発達障害、適応障害などの問題を抱えていても芸術や芸能、ユーチューバーなどで活躍している人がたくさん居ますので、競争社会の勝負に勝った人だけが優れている訳ではありません。

そういう意味では勝負しないという選択肢もあって、必ずしも勝負必勝だけが全てではないのです。

仏教の開祖である釈迦は悟りという大きな目標の前では、人間同士が競ったり争ったりすることには何の価値も無いと説くのです。

人間としての喜び

私達一般人は仏教の戒律さえ満足に守ることが出来ないのですから、悟りなんて程遠い存在です。

しかし生まれ変わり死に変わりの六道と言われる輪廻転生の世界の中でも人間界の人として生まれてきたからには、せめて人として幸せになることをしない限りは、次の目標には向かっていけないのです。

釈迦が悟りにょって得られた喜びは最上の喜び、無上の喜びであり、壊れることの無い永遠の喜びです。

その点私達が味わう喜びはその場限りの喜びではありますが、次なる高いレベルの喜びに繋げていくことが出来る喜びなのです。

まずは私達は人としての喜びを完成させるために、小さな喜びを積み重ねていきましょう。

そして自分だけが楽しむ喜びよりも他と共有出来る喜びを、更には他の喜びが自らの喜びになるようにしていくのです。

そういう意味では喜びを味わうことの出来るための「勝負必勝」はとても役に立つのです。

毘沙門天と勝負必勝

毘沙門天は勝負必勝の神として有名です。身に甲冑を付け、火焔を伴い、いかつい顔をして戦う姿がまさに戦う神なのです。

また邪鬼を踏んでいる姿は諸悪に対する勝利の証でもあるのです。

勝負必勝の理由

古くは聖徳太子が物部守屋追討の折に、四天王に戦勝を祈願して、後に四天王寺を建立し、毘沙門天を祀るために信貴山を創設したことや、上杉謙信が勝負必勝を祈願して毘沙門天を祀ったことなどで、いかに勝負の神として崇められていたかが分かります。

しかし毘沙門天は仏教の四天王の中にも位置することから、最終的な目標は悟りであり、他を傷つけることではないはずでありますが、私達凡夫はいきなり悟りの世界に向かうのは無理なことで、日常の出来事の中で人と関わりながら少しずつ悟りに向かうことしか出来ません。その日常生活の中で起こる様々な出来事に対して少しでも悟りに近づく方法で解決を示し、私達の身近な所で活躍しているのが毘沙門天なのです。

真の勝負必勝とは

毘沙門天の勝負必勝は相手を滅ぼしてしまうことではありません、相手と共に生きる勝負必勝なのです。相手を滅ぼしてしまっても、恨みが恨みを生む連鎖は止まらず、皆が滅びてしまうからです。本当の敵は自らの心の中にあり、心の中の悪魔と戦うことが真の勝負必勝なのです。

毘沙門天は鎧兜に身を固めてはいますが、相手を殺傷する道具は持っていません、相手を救済するために戦っているのです。

勝負に勝つことは喜びであり、嬉しいことですから、人生にプラスになる勝負は勝つことを目指しましょう。

勝つこととは

  • 試験合格
  • 受験合格
  • 商談成立
  • 目標達成
  • 病気平癒

病気に打ち勝つことも大切で、病魔に勝つのです、負けてはいけません。

そして何よりも大切なことは勝っても自慢することなく驕り高ぶらず次なる目標を目指し、魂の向上に繋がるようにしていくことです。