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無縁仏について
無縁仏とは供養や管理する人の居なくなったお墓、或いは住所不定などで引き取る人の居ない遺骨のことを言います。
無縁仏は増えている
今の時代は人口の減少、少子高齢化、核家族化の進行に歯止めがかかることなく、高度経済成長期にはたくさんの子供達の声で賑わっていた大型団地は高齢者夫婦やお一人様の世帯ばかりになり、亡くなっていても誰も気が付かないという、老人の孤独死が大きな社会問題になっています。
自分達が亡くなっても後継者が居ない、或いは遠方に住んでいるから墓を買うことが出来ず、ましてや今ある先祖のお墓を墓じまいしなければいけないという二重の苦労を背負うことになるのです。
都立の霊園で最も古い多磨霊園や八柱霊園では創設されてから90年程度経過しており、当初にお墓を購入した人からは3代目位の後継者になるのですが、後継者が居なくなってしまったお墓が増えていて、既に2割程度のお墓が無縁になっているのが現状です。
無縁仏になったら
お墓が無縁になったかどうかは「年間管理費」の支払いの有無で判断されます。
年間管理費とは霊園を維持管理していくために必要な経費となり、草刈りや清掃などの管理業務、墓地の受付や移転などの事務業務、水道料金などの支払いに充てられますので、年間管理費が入らなくなれば霊園の運営は破綻してしまいます。
都立の霊園では年間管理費が毎年払われているお墓の使用者には特別な連絡をするようなことはありませんが、支払いが滞ると縁故者の人に連絡が行き、墓地の中には縁故者に対して名乗り出ることが無ければ撤去する旨の掲示板を掲げて強制撤去の段取りが始まります。
無縁仏になってしまい、誰も縁故者が名乗り出ることが無ければお墓はやがて強制撤去されて、お墓の中のご先祖様は合同墓地に強制収容されることになります。
無縁仏の恨み
子孫長久を願って建てたお墓なら、年月の経過と共に多くの子孫の者がお墓参りに来ることを夢見ていた先祖達も諸行無常の道理には逆らうことが出来ずにお墓参りする人が減っていき、やがて誰も来なくなってしまった瞬間に子孫長久の願いが断ち切れて、お墓は放置されて無残な姿を晒すばかりです。
お墓というものはそもそも、亡き人が天から降りてくるための依り代であって、開眼供養されたお墓は依り代としての機能を果たしますので、お墓は先祖と子孫の者の交流の場であり、先祖を供養する場でもあるのです。
ところが無縁になってしまったお墓であっても先祖が降りてくる訳ですから、誰も来ない、そしてお墓がどんどん荒れていけばご先祖様の悲しみはやがて恨みに変わっていくのです。
無縁になっても放置していることが問題なのであって、断りを入れて供養の儀式を行い、お墓の閉眼供養さえしていればご先祖様に恨まれるようなことはありません。
無縁仏と地獄
無縁仏と言いますと、住所不定の行き倒れの人であったり、周りに迷惑が掛かるからと強制的に撤去されたりして、幸せな最後ではなかった方ということになります。
誰も看取る人が居なかったからという理由で地獄に堕ちることはありませんが、無念の思いで強制的に撤去されたご先祖様の場合には強い思いが残るかもしれません。
都立の多磨霊園の合葬墓はお墓を作ることなく最初から合同で良いと入る人もたくさん居られますが、墓じまいした遺骨も多数納められていて、おそらくものすごい数の遺骨が納められていて満杯になったので、現在では受付を終了していますが、合葬墓の中は地下室になっていて職員の人しか入ることが出来ません。
以前に墓じまいで利用した時に職員の方が「ここは出るんです」と言っておられましたが、無念の思いで収容された方々の霊のことではないかと思います。
無念の思いや執念は永遠に残ってしまいますので悔しい思いを何時までもしていれば地獄の釜の蓋が開いてしまいます。
「無縁仏に手を合わせるな」とは
昔から「お墓にある無縁仏に手を合わせてはいけない」という言い伝えがありますが、無縁仏というものは誰からも供養されることが無いので常に寂しくて仕方ない、誰か来てくれたらよいのにと思っていて、そういう時に心優しい人が来て手を合わせてくれると感激してそのまま憑いてくるという理由からなのです。
仏教的に「喉の渇き」ということで喩えますと、無縁仏はいつも喉が渇いてカラカラで、通りがかった人に水を下さい水を下さいと言い続けていても誰も水をくれることがありませんが、心優しい人が居て水を差しだしてくれたらもう感激してしまい、そのまま憑いて行ってしまうということなのです。
無縁仏はその人にずっと憑いたままになると言われていて、肩が重い、体がだるいなどの原因不明の症状となり、霊能者から無縁の霊が憑いていますと言われて初めて気が付くのです。
しかしながら心優しい人に無縁の霊が必ず憑くのかと言えばそうでもなくて、心優しい人にはその人を守ってくれる神仏が付いていて、守ってくれるのです。
無縁仏と供養
無縁仏は宗教的に言えば「供養されていない霊」ということになりそうですが、宗教を信じない人もたくさん居て、死んだら何も残らないと言い切るような人にはお墓も供養も必要ないのですから、正確に言えば「供養してほしいのに誰もしてくれない霊」ということになります。
仏教で言うところの「追善供養」つまり法事のことですが、亡き人に対して「追って善いことをする」という意味で、善いこととは功徳のことで、亡き人があの世に行って最後の審判を受ける時に「善い行い」が足りなかったら困るだろうと皆が集まってお経をあげ、その功徳を届けて差し上げるのが「追善供養」なのです。
そして「追善供養」が受けられないのが無縁仏であって、誰も法事をしてくれないので悪趣に堕ちやすいとも言われているのです。
寺院と無縁仏
我が国では江戸時代から続く檀家制度の影響で寺院にお墓があるということが当たり前になっていますが、寺院でも都会に出ていく人や後継ぎの無い人などの影響で、特に地方では檀家が減っていて、寺院の運営に支障をきたしていることが大きな問題になっています。
寺院では何らかの理由で無縁仏になった墓は、縁故者が居ない場合には竿石だけを残して一か所にまとめて供養されます。
寺院の場合にはまだ供養されるだけ救われる気がするのですが、昔から無縁墓に手を合わせると無縁仏が付いてくるというような言い伝えもあって、丁寧に供養されているような姿ではありませんが、元々永代供養などの名目で頼んだ訳ではなくて、無縁にしてしまって誰も名乗り出ない訳ですから、決して文句など言えない立場なのです。
無縁仏にしてはいけない
ご先祖様に対して、お金が無いからとか、勝手に作った墓だからという理由で放置して無縁にしてしまう心こそが地獄だと思います。
誰もが必ず無縁仏
神話時代からの歴代の系統が続いているのは国民の象徴としての天皇だけであって、それでも長い歴史の中では不明な部分が多いものの、後継者が後を継ぐということを如何なる時代であっても続けてこられたことに対しては畏敬の念を抱かずにはいられません。
しかし現在では女系天皇も視野に入れて検討されていることは、天皇家であってもやはり絶えてしまうようなこともあるということなのです。
私達一般庶民は現代では長く続いて3代までです。
親と子と孫が別々の所でくらしているのですから、仮にお墓を買っても自分達が入るだけで後の面倒は誰も見てくれないということになるのです。
都会暮らしの人が墓を買っても必ず無縁になります。
無縁になって悲しむのは中に入っている亡き人で、私達も無理をしてお墓を買ったところで無縁になってしまったら、いつかは必ず放置されてしまって周りの人に迷惑を掛けて肩身の狭い思いをし、強制的に安住の地を奪われて無縁の収容所に入れられるのです。
そういう思いをするのなら、自由になれる散骨供養を選択すればよかった、樹木葬にしておけばよかったと思っても後の祭りなのです。
後片付けは誰がするか
無縁の後片付けは最後に残った人の仕事です。
お金がもったいないとか、先祖が勝手に作った墓だから私には関係ないという考えはいけません。
人の道として文句を言わずに片付けるのです。
そうしないと亡き人は永遠に苦しみ続け、その恨みを買ってしまうことになるのです。
死後の世界の仏教の道理ではなくて、親から子へと続いてきた魂の叫びも聞く必要があるのです。