不慳貪について
不慳貪とは物惜しみをしない、貪らないことで、身(体の行い)、口(口で発する言葉)、意(心で思う事)の規律である仏教の十善戒の中で、意業(心で思う事)に関する規律の一つです。
「慳貪」とは
「慳貪」とは「慳」が物惜しみをすること「貪」が貪ることです。
「慳」も「貪」も物質に対する欲望であり、要らない程たくさんあるのに施しをしないことと、必要な分だけ持っているのにもっと欲しいもっと欲しいと、欲望丸出しの状態を言います。
物質に対しての欲望が満足できない人は心の満足も得られませんので、精神まで飢えたになってしまいます。
慳貪が良くない理由
私達は経済社会に生きている限り、お金や物がたくさんあれば安心して暮らすことが出来ます。
しかしお金や物はどれだけあれば十分満足できるかと言われたら、人によって違いますし、ある程度持っている人でも、実はもっと欲しいと思うものです。
たくさんの物を持っている人でも今は必要ないかもしれないが、将来必要になるかもと思う気持ちがあるからこそ持ち続けているのです。
バイキング方式のレストランに行って食べきれない程お皿にとって、食べきれずに残して帰るのはマナー違反です。
私達の国は今とても豊かですが、世界中には経済的な理由や家庭の事情で、食べたくても食べることが出来ないで病気になったり死んでいく子供達がたくさん居る訳で、そういう人たちに施されることなく捨てられる食べ物が多いことは、とても無慈悲なことを日々繰り返していることになるのです。
慳貪の反対は「施し」です
私達日本人は「施し」という文化があまり根付いていませんが、たとえばアメリカではお金持ちは慈善団体に多額の寄付することで有名で、お金を稼ぐ人が施すのは当然のこととされているのです。
私達日本では「助け合い」という思想の方が根付いていて、地震、台風などの自然災害が多いことから、困ったときは皆で助け合うことも施しです。
仏教では寺院や僧に対する「お布施」が施しになって、生活困窮者の救済や亡き人の供養、法による安心につながるというのが本来のお布施なのです。
自分が持っている物やお金を困っている人に差し上げても、何も返ってこないから何の徳もしないと思われがちですが、果たしてそうなのでしょうか。
仏教で言う所の功徳とは目に見えない徳であり、功徳を積んだからと言って目に見えるものではありません。
しかし私達の魂が果てしない旅の途中であることや、魂の行き先が功徳によって決まることを思えば、今私達の生きている時間はほんのわずかの時間にすぎませんから、その貴重な時間の間に何をしなければいけないのかという、私達の生まれた、そして今生きている理由が分かった時に、今功徳を積まないともう間に合わないという気持ちにさえなるのです。
布施波羅蜜とは
六波羅蜜とは大乗仏教に於ける六つの修行法で、菩薩が仏になるために必要な徳になり、私達の日常生活の中でも実践できる仏道の修行法で、その中に「布施波羅蜜」があります。
「布施波羅蜜」で実践する布施行には、財物を施す財施(ざいせ)、法を説き与える法施(ほうせ)、恐怖や不安を取り除き安心を与える無畏施(むいせ)があります。
このように布施波羅蜜は私達の生活の中でも様々に実践することが出来る修行であり、功徳になるのです。
正しい心とは
たとえ自分が少しぐらい困るようなことがあっても、困っている人を助けて差し上げましょう。
人に施したにしても決して損したなんて思ってはいけません。
困っている人に礼を言われなくとも怒りの心を持ってはいけません。
少しの物で満足する心のゆとりを持ちましょう。
施しをした相手の喜びが自分の喜びになるようにしましょう。