末法とは
末法とは釈迦の入滅後1500年もしくは2000年過ぎたら釈迦の説いた教えを実践する者と悟りに入る者が居なくなる時期のことで、その考えを末法思想と言います。
釈迦の教え
釈迦の教えは教・行・証に分けられ
- 教…釈迦の説いた正しい教え
- 行…釈迦の教えを正しく実践する人
- 証…正しい修行の結果としての悟り
釈迦の入滅後に年月が経過することによって教は残るが形だけになってしまい、行・証がだんだん得られなくなってしまうという考えが出てきました。
釈迦の悟りの重要な要素として「諸行無常」がありますが、「全ての物は移り変わりして永遠に続くものは何もない」ということは釈迦の説いた真実の教えである仏教についても言えることで、宇宙が生成と消滅を繰り返しているように、真実の教えも何時かは必ず滅びてしまうという無常観があるのです。
三時とは
三時とは正法・像法・末法の三つの時代のことで、釈迦が入滅後に仏法の行われ方がどのように変化していくかを時系列的に表したものです。
- 正法…教・行・証が得られている千年間
- 像法…教・行はあるが、証が得られない千年間
- 末法…教はあるが、行・証が廃れてしまう一万年
いずれの時代にも釈迦の説いた正しい教えである「教」だけはあるけれど、末法になれば実践する人も悟りを得る人も居なくなってしまうので、まさに「世も末」の時代になるのです。
末法は何時から?
世の中が像法になったり末法になるにしても、釈迦が何時入滅されたのかが分からなければ何時の事であるのか分からずじまいです。
釈迦の入滅には決まった定説がありませんが、紀元前383年という説からすれば末法は1618年からということになります。
もっと早く釈迦入滅を紀元前949年として1052年(永承7年)から末法に入ったとされる記録もあります。
扶桑略記によれば
我が国での末法思想が何時からかと言う疑問に対してよく引用されるのが平安時代の比叡山の僧、皇円が編纂した歴史書「扶桑略記」です。
「扶桑略記」(ふそうりゃっき)によれば
「永承七年壬辰正月廿六日癸酉、千僧を大極殿に屈請し、観音経を転読せしむ。去年の冬より疫病流行し、改年已後、弥々以て熾盛なり。仍って其の災を除かむが為めなり。今年始めて末法に入る」
「永保元年九月十五日戊戌、未時山僧数百の兵衆を引率して三井寺に行き向ふ。重ねて残りの堂舎僧房等を焼き畢んぬと云ふ。…今年末法に入りてより三十年を経たり」
の記述があることから、永承7年(1052)を末法元年として捉えているようです。
永承七年
院政の行われていた永承七年は藤原道長の息子、藤原頼通の時代であり、疫病が全国的に流行し、藤原家と縁の深い大和の長谷寺が焼失、更に地方では陸奥国で「前九年の役」が勃発などの情勢が不安定な時であり、凶事が続くことから末法元年として恐れられたのです。
国家鎮護の寺としての天台宗の比叡山延暦寺では荘園を貴族や武士の侵入から守るための僧兵といわれる武力集団を持ち、内部抗争が激化したり、東大寺や興福寺など南都の僧とも権力闘争が起きたりなどの物騒な世の中であったからこそ、末法と言われる様相を誰もが感じていたのです。
今は末法
いずれにしても今の時代は末法になっていることは間違いないようで、末法はしかも一万年も続くのですから、なってしまったものはどうにも出来ないのです。
釈迦の説いた正しい教えを実践する人が居ないと言えば確かにそうかもしれません。
悟りを得る者が居なくなると言えばそうかもしれません。
しかし正法と言われる千年間でも釈迦に続いてこの世で釈迦同様或いは釈迦を越える悟りを得た者が居ないことを思えば、悟りの困難さは何時の時代も変わることないのです。
仏法による救いの方法が悟りしか無いとすれば私達凡夫は永遠に救われることが無い存在であり、ましてや末法の時代であるとすれば、誰かに救ってもらえるしかないということで末法思想が起こると同時に浄土教の教え、つまり阿弥陀如来に救ってもらうという教えに共感する人達が爆発的に増えたのです。
私達日本人は自分で悟りを得るというより、信仰することで誰かに救ってもらえると考えている人達が多く、宗教の教祖や寺院の本尊、或いはご先祖様が必ず救ってくれるという潜在的な信仰を持ち合わせているのは源信の往生要集や空也上人の踊念仏は末法の時代にあって誰もが皆救われると言う道を示してくれたのです。